鹿島美術研究 年報第38号
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代は、「大きな政府」による積極的な管理・介入によって特徴づけられる。同政権は、大干ばつに対処するための環境保全計画や、国立公園・ダムの整備といった大規模な公共事業を実施し、先住民政策では、先住民居留地の統治形態を統一化するためにインディアン再組織法(1934年)を成立させた。1930年代のナバホ居留地における環境保全計画は、ニューディール政策が、殖民国家による先住民の土地に対する管理・介入の一形態でもあったことを端的に表している。合衆国で最大の先住民居留地であるナバホ居留地は、ニューディール政策下の環境保全計画の実験場として位置づけられていた。1930年代当時の科学的知見に基づいた土壌保全・家畜の頭数制限は、母系社会の遊牧民であるナバホの、土着の価値観やローカルな関心を無視して実施されたために、現代にまで至る混乱を引き起こした。そして、こうしたルーズヴェルト政権下のナバホ居留地への物理的な介入は、ドキュメンタリー写真が「近代化するナバホ居留地」というイメージを構築したように、居留地の表象の意味の管理を伴うものであった。ナバホの生徒達の視点から描かれた、インディアン画による居留地の風景は、殖民国家による居留地という場の表象が自明のものとする前提を照射する。本研究は同時に、ナバホ居留地から遠く離れた、サンタフェ寄宿学校で制作された風景画が、必ずしも真正で正確なナバホ居留地の描写ではないことに留意しつつ、ナバホの生徒達がアイデンティティーを形成・表明する手段として機能し得た可能性を考察する。北米先住民の一部族ダコタの歴史家フィリップ・デロリアの著書、Indians in Unexpected Places(2004)によれば、20世紀初めの北米先住民にとって、産業化社会とは相容れない、ステレオタイプな「インディアン」の表象を演じることが、逆説的にスポーツや映画産業といったモダニズムの文化的空間に参加する手段として機能した。1930年代のインディアン画の大多数は、鉄道や自動車といったテクノロジーや、白人観光客などの非先住民を画面から排除し、一方で弓矢による狩猟や伝統的な儀礼等を描くことで、単純化・理想化され、近代化から切り離された先住民文化のイメージを描写している。一方で、インディアン画を制作した寄宿学校の生徒達は、学科教育を受ける傍ら、週末には映画を鑑賞し、スポーツや楽隊といった課外活動に積極的に参加した。インディアン画は、生徒達が寄宿学校での経験を具体的に描写・表現する手段にはなり得なかったが、その制作行為自体が、寄宿学校におけるモダニティの経験の一部だった。本研究はこうした理解に基づいて、ナバホ居留地の風景画を、生徒達が寄宿学校のモダニティを取り込みながら、ニューディール政策時代のナバホと―90―

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