三代広重の画業と、歌川派絵師の近代研究者: 港区教育委員会事務局教育推進部図書文化財課文化財係文化財保護調査員神谷本調査研究は、幕末から明治にかけての浮世絵師・三代歌川広重(1842-94)の画業をできるだけ解明することを目的とする。初代歌川広重は江戸時代後期の浮世絵界を、特に名所絵の分野で牽引した重要な絵師であり、その研究も数多い。三代広重においては、幕末から明治にかけて大きく変わりゆく都市を描いた「横浜浮世絵」「開化絵」と呼ばれる作品群を数多く手掛けている。これらの作品群は、かつて名所として知られていた場所の近代化の様子や、横浜のように新しく作られた場所など、まさに文明開化の名所絵といえるものである。その点において明治初期の浮世絵界に与えた影響は大きく、まさに名所絵の巨匠であった初代広重の名を継ぐ者として、時流を確実に捉えてその役割を全うしたことは間違いないだろう。しかし、研究は少なく、大まかな画業と作品は把握されているものの、未だ初代広重研究の中で簡単に触れられる程度に留まっている。そこで本研究では、三代広重が手掛けた錦絵・版本・肉筆画・画帖作品のデータを収集したうえで、作品目録を作成する。二代広重作品として図録やデータベースに掲載されている作品が、実は三代広重作品である例が散見される。これは初代広重の用いた「一立斎」の画号を、両者ともに使用しているため、混同されている可能性が考えられる。そのため、三代広重だけではなく二代広重作品も網羅的に把握する必要がある。三代広重は、明治初年から横浜浮世絵と並行して、東京の名所絵を数多く手がけているが、明治3年(1870)三代歌川国貞、二代歌川国輝、小林永濯とともに、東本願寺による北海道開拓を題材とした「明治三年東本願寺現如上人北海道巡錫絵図」を、明治8年(1875)には交通インフラが整備されつつある東海道の景観を描いた揃物「東海名所改正道中記」、そして明治10年(1877)には第一回内国勧業博覧会に「東京三十六景」「大日本物産図会」を出品していることからも、その視野は東京や横浜といった一都市だけではなく、日本全国へと広がっていることが見て取れる。各地の名所を描く際、構図や場面選択などに初代広重の名所絵からの学習が顕著に見られるが、一方で全く初代広重からの影響を感じさせない作品も多い。特に「東海名所改正―93―蘭
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