的紐帯にも考察を広げ、古代ローマの美術市場を取り巻く文化的、経済的、社会的状況を検証することにある。ローマの共和政末期から帝政初期にかけて地中海で難破した沈没船は、現時点で200隻以上確認されており、積荷から美術品が発見された例はそのうち約20件である。なかでも、その数量と種類において最多となる事例が、本研究で主たる研究対象とするマハディア沖の沈没船の積荷である。同船内から発見されたアンフォラの形状や刻印から、船は紀元前80-60年頃にアテネの外港ピレウスを出港し、イタリア半島へ向かう途中に難破したと推定されている。しかし、貨物船の造船時期や出港年代が、必ずしも積み荷された美術品の制作時期と同時代であるとは限らない。実際、積荷には、クラシック期の「名作」を紀元前1世紀に複製した大理石彫刻のみならず、紀元前4世紀に遡る墓碑浮彫も含まれており、このことは、ギリシア古典期の伝統や名品へ傾倒する当時のローマ人蒐集家の需要に応じた美術品取引のシステムが機能していたことを示している。同様の現象は、前50年頃にエフェソスを出港し、ペロポネソス半島とクレタ島の間に位置するアンティキュテラ島沖で沈没した商船から発見された美術品群にも確認される。例えば、現在アテネ考古学博物館に所蔵される紀元前3世紀後半に制作されたブロンズ像《アンティキュテラの青年》が、同船内で発見されたことは、当時のローマ人たちにとって「ギリシアの古美術」であるクラシック期の美術品を何らかの方法で収集し、販売した古美術商の存在を推察することも可能である。つまり、共和政末期から帝政初期にギリシア世界からローマへと流入した美術品には、①ギリシア文化圏の職人が越境し制作した作品、②ギリシア文化圏の工房で当該時代に制作された輸出品、③当該時代には、ギリシア文化圏で既に「古美術品」とみなされており、掠奪あるいは購買された古典作品である。よって本研究では、その後者2つの「美術品の移動」に関して美術史学的に例証するが、このアプローチは、最終的に前者の「職人の移動」と並行して論じられることで、ローマ美術におけるギリシア美術の受容に関する新たな議論の足掛かりとなり、発展的課題として意義を持つ。また、本研究では、筆者が収集する沈没船の美術品に関する上記の新資料に加え、当該時代の古文献や考古資料に基づいたローマ人の美術品蒐集や、歴史学における古代ローマの地中海貿易に関する先行研究を取り入れながら、美術品取引の全像を論じ、新知見を提案することを目指す。そのため、諸領域の実証的な考察の再構築によ―18―
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