鹿島美術研究 年報第38号
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で待たねばならないと考えられてきた。しかし、上記の調査結果を信じるならば、宇佐周辺では奈良・唐招提寺木彫群を契機とする日本における本格的な木彫像の成立とほぼ同時に木彫像の制作が始まっていたことになり、中央から地方への造像技法や様式伝播のプロセス、あるいは受容の実態など、地方における木彫像出現を巡る様々な検討課題を生じることになる。筆者はこれまでの研究において、天福寺木彫群の一部についての作風検討をおこなったが、菩薩立像の中には共に伝来した奈良時代の塑造菩薩立像と酷似するものや、8世紀の代表的な木心乾漆像である奈良・聖林寺十一面観音菩薩立像に通じる作例があることを指摘した。また周辺に目を移せば、北九州市・謹念寺菩薩立像のように天福寺奥院の菩薩立像と唐招提寺木彫群(伝衆宝王菩薩像)の双方に通じる作風を示すものも確認される。こうした状況は、天福寺諸像が制作される際に、当時中央でおこなわれていた塑像、乾漆像、新来の木彫像といった様々な技法・表現が、同時多発的に木彫像に応用されたことを物語るものと言えるのではなかろうか。またその一方で、天福寺諸像のうち一躯の如来立像には、腰高なプロポーションや逆三角形の頭部の形状等に、9世紀の制作とみられる福岡・浮嶽神社如来立像や福岡・観世音寺阿弥陀如来立像に通じる要素を指摘することができる。浮嶽神社木彫像の成立背景については、これまでも航海の目印となった浮嶽に対する霊山信仰と密接に関わるものと推定されてきたが、私見では藤原広嗣の怨霊を封じ、大宰府観世音寺とも密接なつながりをもつ弥勒知識寺(佐賀県唐津市)の存在を前提とし、その官僧による山林修行、および承和年間における遣唐使の派遣、これを契機に宇佐弥勒寺を含む九州管内寺院の支配を目論んだ観世音寺講師の関与など、複合的な要因が浮嶽神社木彫像の成立に繋がったと考えている。こうした9世紀前半の宗教的枠組みを想定するならば、豊前宇佐地域で奈良時代末期には成立した木彫像がプロトタイプとなり、太宰府観世音寺の関与のもとで一定の様式的規範性を持ちつつ、しかも時にはより洗練を加えるかたちで在地様式が成立し、九州の要所に作例が残ったという連続的展開を想定することも可能であろう。本研究では以上に述べたいくつかの可能性を念頭に置きながら、天福寺奥院木彫群の基礎的調査と分析をおこない、その成果をもとに九州における古代木彫像の成立と展開の様相と地方様式の成り立ちの総合的理解を目指すものである。―24―

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