⑨京都市近郊の寺社が有する原在中・在明作例の研究―原家文書翻刻から判明する公家注文作品の伝来について―【研究の意義・価値】研究者:京都府京都文化博物館学芸員初代原在中は商家の生まれでありながら、原派という絵師の一派を築き上げた。以降、原派は江戸時代中期から幕末にかけて常に京都画壇の中心にいた。近代以降も京都市画学校に出仕するなど、時勢に応じて活躍の場を得ている。中でも、初代在中、息子の在正・二代目の在明は、従来朝廷で活躍していた狩野派、土佐派、鶴澤派を凌ぐほどの目覚ましい成果を遂げた。近年、寛政4年(1792)の御所造営をめぐる研究に注目が集まっている。寛政度以降、幕府のお抱え絵師である狩野派や、鶴澤派、長らく宮廷絵所職を務めてきた土佐派が独占していた朝廷の御用を、京都の町絵師円山応挙(1733-1795)はじめ円山四条派が席巻した。近年の研究から、これは当時の朝幕関係を反映したためと理解されているが、美術史研究に限っていえば、絵師たちに求められる画風が一変する契機でもあった。原派はこうした時代の中で、朝廷や公家の需要に応じて作品を描き、有職故実に通じて重宝された。宮中の儀礼や御幸図、実景図、正倉院・春日大社の宝物を写すなど、特権的な役割を獲得する。現在も、京都御所や修学院離宮の障壁は在中と、2代目の在明作品で飾られている。彼らは養子縁組などに頼って、朝廷や公家に出入りできる身分(地下官人)を獲得し、さらには春日絵所職の株を購入した。つまり強い意識を持って政治的に有利な立場を獲得し、朝廷周辺で活躍したと推測される。本研究は美術史上、及び朝廷の制度史上において重要視されている寛政度御用造営以降の京都画壇について、原派-とりわけ一派の基盤を築いた在中・在正・在明の活躍をめぐって追究するものである。本研究の新規性は、京都府立京都学・歴彩館の所蔵する「原家文書」という同時代資料を翻刻することによって、現存する原派作例の制作背景、制作年代を特定できることだ。中でも京都府近郊の寺社に遺されている障壁画群は当時の朝廷や公家とのゆかりが深く、史料翻刻に基づいて着実な画風検討を行えば、美術史上において大きな成果が期待できるほか、文化財保護においても重要である。―28―有賀茜
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