鹿島美術研究 年報第38号
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② 田中には画廊や美術館といった純粋な展示空間を前提とした作品以外に、屋外や公共建築物のパブリックスペースに設置された作品が少なくない。日本では、宇部市野外彫刻展のような彫刻の公募展が地方に拡散し、それに参加するようなかたちで作家が屋外での作品発表に関わるケースが増加していった。田中は、そのような事業に参加することもあったが、田中個人が企業や地方公共団体等と交渉して作品設置に至っている事例も多い。言うまでもなく、作家個人が一つのプロジェクト、地域や企業体のパブリック空間、周辺環境等を統御することによって、はじめて一体化した環境芸術となることが可能となると考えることができるだろう。今回の調査はそのような研究のための基礎資料として活用されることも想定している。③ 戦後日本を代表するインテリアデザイナーとして倉俣史郎は良く知られた存在であろう。倉俣の活動は企業の宣伝部から始まるが、高松次郎や横尾忠則との共作による仕事で注目を浴びた。倉俣の活動は海外にも及び、イタリアのデザイナー、ソットサスを中心としたデザイン運動「メンフィス」に参加する等、その後も国際的に活躍し、フランス文化省芸術文化勲章を受章するような評価を受けるに至った。その倉俣の重要なブレーンとして田中信太郎の存在があったことは、関係者の間では良く知られた事実であるが、一般には知られず、また二人の関係を示す公開された資料も殆ど存在しない。倉俣という傑出したデザイナーと彫刻家田中信太郎の関係がどのようなものだったのかという問題は、田中の残した倉俣と交わされた書簡等の資料によって始めて明かされる事実も少なくないだろう。ズに所属して作家活動を始めた。同グループ解散後は団体等に所属せず、独立して近年に至るまで日本の現代美術界の第一線で活躍してきた。一個の作家として日本の主要な美術動向と様々な関わりを持ちながら、独自な制作行為を維持してきたのである。例えば、1970年の東京ビエンナーレに招待出品した時期、「もの派」の動向との関係を問われることもあったが、田中自身が否定したということもあり「もの派」の追随者と見なされるようなことは無かった。しかしながら、当時の田中作品には同動向との関係性をうかがわせる要素もある。今回の調査によって公開される資料を見直すことによって、当時の時代様式とも言える「もの派」を再検討するための資料としても、今回の調査によって整理された資料が活用されることが期待される。―30―

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