ムのはざまで揺れる第二次世界大戦後のフランスの時代的背景と強く結びついている。同時に、アッシー教会で宗教芸術とモダニスムとの出会いを通して提示された「作り手の信仰と作品との関係」、そして「聖なるものの表象と美の関係」の問題は、キリスト教美術における普遍的かつ根本的な問いである。アッシー教会で最大のスキャンダルになったのはリシエ作キリスト像であった。教会完成時に祭壇中央に置かれていたこの像は、保守的カトリック原理主義者の批判を受けて撤去され、約20年にわたって別の場所に移されていた。美しいというより、むしろ醜い姿で表された前衛的なキリスト像は、保守的カトリック原理主義者たちによる厳しい批判に晒された。「聖なる芸術」運動の背景には、宗教芸術のデカダンスと言われる状況があった。ルービンが指摘しているように、宗教芸術の退廃は、いわゆる「キッチュ」の安価で派手な宗教的装飾品の普及によって特徴づけられる。当時、商業的に生産されて流布していたキッチュの宗教芸術は、パリのサン=シュルピス教会周辺の宗教店で広く販売されていたことから、「サン=シュルピスの芸術」と呼ばれている。アッシー教会のリシエのキリスト像を批判するカトリック信者によって配られたビラにおいて、リシエのキリスト像と、こうあって欲しいというサン=シュルピス風のキリストとが並べて掲載されていたことは注目されよう。20世紀のフランスで展開された「聖なる芸術」運動は、19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパの一連の中世復興運動の流れの中に位置づけることができるだろう。19世紀のフランスにおいては、喜多崎親『聖性の転位――一九世紀フランスに於ける宗教画の変貌』(2011年)において論じられているように、ビザンティン復興によってモザイクが聖なるものの表象のために機能していた。クチュリエ神父もモザイクやタペストリーといった伝統的なメディアを採用しながら、そこに現代アートの息吹を吹き込もうとした。ただし、クチュリエ神父は中世復興の流れを継承しつつ、過去の様式の借用に留まらない、独自の宗教芸術の近代化を試みた。クチュリエ神父の宗教芸術刷新運動に先立って、20世紀前半に活発化した「聖なる芸術」運動の中心が1919年にモーリス・ドニとジョルジュ・デヴァリエールによって創設された宗教芸術工房「アトリエ・ダール・サクレ」であった。クチュリエ神父も参加していた「アトリエ・ダール・サクレ」は、信仰生活に根差した共同制作によって特徴づけられており、多くの女性信者が参加していた点も注目されている。フランス両大戦間期における女性芸術家による教会装飾への積極的な関与をめぐっては、味岡京子『聖なる芸術――二十世紀前半フラン―33―
元のページ ../index.html#48