鹿島美術研究 年報第38号
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るという点である。本装飾事業はデイヴィス(1960)の研究以降、ペトルッチの子息ボルゲーゼと、ヴィットリア・ピッコローミニの婚姻(1509)と結び付けられ、全体の装飾プログラムが「結婚の美徳」を表すものであるとして解釈されていた。対して、タトライ(1978)やジャクソン(2008)らにより、全体の装飾プログラムはペトルッチの生涯の事績を暗喩するものとして、近年こうした解釈は否定されている。しかしながら現存するカメラ・ベッラの付け柱や台座(シエナ国立絵画館所蔵)、マヨリカによる床タイル(ルーブル美術館所蔵)には、ピッコローミニ家の紋章が組み込まれたペトルッチ家の紋章が付されており、カメラ・ベッラ装飾事業におけるピッコローミニ家の存在を完全に退けることができるようには見受けられない。筆者はこれまでの研究において、シニョレッリによるオルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂装飾事業(1499-c.1504)におけるピッコローミニ家の関与を指摘してきたが、おそらく本装飾事業への画家の招聘もピッコローミニ家との縁故が影響していたと考える。ピントゥリッキオも本装飾事業の数年前にはピッコローミニ家の図書館装飾(1502-c.1507)を手がけていたのであり、こうした視点から考察する意義はあると考える。第二に、本研究はシニョレッリによるオルヴィエートのサン・ブリツィオ礼拝堂装飾事業からシエナでの本装飾事業に至るまでの過程を跡付けるものであると言い換えることができると考えるが、そうすることによって、どのように芸術的名声は回遊するのかという問題に対してのテストケースを提示することができると考える。こうした問題に対して参考となるのはヘンリー(2008)による研究であり、彼はシニョレッリのサン・ブリツィオ礼拝堂装飾事業招聘において、画家のシエナにおけるビーキ祭壇画(1488-1489)による名声が功を成したことを、史料とシエナ派におけるその派生作品との調査から明かしている。筆者は本装飾事業を考察する上でも同様の方法論が有効であると考える。最後に、本研究においてシニョレッリとピントゥリッキオという二人の画家の事業招聘の背景について考察し、古代風をめぐる両画家の立脚点を探るという点である。カメラ・ベッラは、古代の英雄の事跡と文学とを主題とする、両画家による計八点の壁画と、ピントリッキオ工房が手掛ける天井画で飾られていた。壁画主題の分担にはシニョレッリの偏重が見受けられるが、ピントゥリッキオが当時すでにシエナの第一線で活躍していたことを考慮すると、やはりそこには特別な事情があったように考え―52―

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