鹿島美術研究 年報第38号
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黒田清輝と象徴主義―サロン・デザンデパンダン(1892)を中心に―1892年に生じた心境の変化について、サロンの変更に関しては、師コランとも相談の上であったことを黒田自身が語り、シャヴァンヌとの邂逅と共によく知られたエピソードとなっている。しかし、1893年のアンデパンダン展への出品に関しては、その意図は推測の域を出ない。次のアンデパンダン展に作品を出品したいことを、黒田はすでに1892年9月末の手紙で父親に伝えている(1892.9.30.)。日本に帰ってからもパリに作品を送る手段を残しておきたいとも書かれているが、それだけが理由というわけではなかっただろう。なぜなら、たとえば、第9回アンデパンダン展に出品した《菊花と西洋婦人》は、画面の三分の一を覆う菊花の陰に女性がいるような大胆かつ新奇な構図で、このような作例からは、新傾向の美術への共感、あるいは、挑戦というべきものが感じられるからである。研究者:久留米市美術館学芸課長補佐兼係長別目的で渡仏した黒田清輝は、1886年に画業に転向してからわずか5年ほどで、サロンへの挑戦を師のラファエル・コランから勧められるほどとなった。1891年にソシエテ・デザルティスト・フランセに《読書》が通り、続く1892年は《厨房》で落選したものの、翌1893年にはシャヴァンヌのアドバイスを得た《朝妝》がソシエテ・ナショナル・デボザールに受入れられた。この留学最後の年には、帰国前に、さらに第9回アンデパンダン展にも6点を出品したという。以上のように、1892年9月までに、黒田は新傾向の作品が出される美術展に自らも出品したいという意志をかためていた。では、その時点では、何が「新しい美術」だったのだろうか。また、そのような新奇な芸術と、黒田はどこで、どのように出会ったのだろうか。第1の候補としては、まず、本人が1893年展に出品していることからも、前年のアンデパンダン展が考えられる。幸いなことに、1892年4月8日、第8回アンデパンダン展に黒田が足を運んだことは、久米桂一郎の日記によりほぼ確実である。この展覧会の目録には1232点が掲載されており、スーラ追悼の作品を筆頭に会場には多様な作品が並べられていたはずである。その中でも、1890年代初頭のアンデパンダン展に登場していた新傾向といえば、それは「象徴主義」思想と結びついた作品群であった。内面的な世界を造形に込める「象徴主義」は、1886年、詩人ジャン・モレアスがフ―57―佐々木奈美子

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