鹿島美術研究 年報第38号
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シュルレアリスムにおけるモードの表象とその親和性ィガロに掲載した「象徴主義宣言」で思想化された。目に見えない世界への関心を、暗示や隠喩を用いて、あるいは、音楽のように表現しようとする様式一般をさすこの語が、アルベール・オーリエやフェリクス・フェネオン(1861-1944)によって美術に援用されると、以前から活動していたシャヴァンヌやモローらも包含されて語られることとなった。オーリエは1892年に早世し、フェネオンは1894年に批評活動を中断するが、この間、1889年にはカフェ・ヴォルピーニでゴーギャンやポン=タヴェン派の画家たちによる「印象主義及び綜合主義グループ」展があり、1891年にはナビ派の最初の展覧会が開かれた。注目したいのは、最後の印象派展の1886年からアール・ヌーヴォーの土台が固まっていく、このわずか10年にも満たない期間が、まさに黒田がパリで画業に転向してから帰国までの年月に重なっていることである。後には「アカデミズムが確立されなければ前衛美術が成り立たないという考えから、自らをアカデミズムの側に位置づけ続け」た黒田清輝(山梨絵美子「黒田清輝の画業と遺産」2016「黒田清輝展」図録より)。その残りわずかなフランス留学の終盤、彼が最新の美術動向に無関心でいられたとは思えない。若き日の黒田の自由な自己表現の一端を、また、自分のためだけではなく日本の美術界のために何をシェアしようとしたのかを、彼と束の間、時代を共有したフランスの前衛美術との関連から少しでも紐解くことができればと考えている。研究者:東京都庭園美術館学芸員アンドレ・ブルトンはその著書『L'art Magique(魔術的芸術)』(1957年刊)の中で、魔術的要素を孕む視覚表現として、古くは紀元前2200年頃のブラッサンプーイのヴィ1924年、アンドレ・ブルトンを中心としてその活動の開幕が宣言された20世紀最大の芸術運動であったシュルレアリスムにおいて、彼らに影響を与えたロートレアモンのかの句、「手術台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会い」を発端として、シュルレアリストたちの表現の表出には、「裁縫」と関連付けられ、ファッションやモードの世界を想起させるイマージュが頻出する。それはシュルレアリスムの概念そのものと、モード的イマージュとの親和性ゆえの特性だったと指摘し得るのではないだろうか。―58―神保京子

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