日本におけるアール・ブリュット観の変遷―1990年代以降の3つの出来事との関連から見る―研究の価値1.民間の私設展覧会の研究:呉服店が日本画の展覧会を開くに至った背景には、髙島屋の家業であった染織品製作が深く関わっていたと考えている。その目的が染織品図案の蒐集にあったこと、しかもそれを展覧会という形で世間に公開する形をとったことについて、企画・運営側の視点から「百幅画会」開催経緯の全容を明らかにする。さらに、出品画家の選抜や出品作画題についての分析を行う。2.大衆の美術概念の受容研究:三都(京都・大阪・東京の髙島屋各店舗)を巡回した「百幅画会」は、各地わずか数日間の開催であったにも関わらず、三都の新聞は批評記事に紙面を割いた。同寸法の100幅の新作を一度に見られる「百幅画会」は、同時代の人々にどのように見られたのか、当時の史料、当事者の証言記録などから考察する。構想:髙島屋が初めて開催した「現代名家百幅画会」開催経緯、当事者・関係者の記録・証言の調査を進める。社史の記述には、「百幅画会」は純然たる美術展で販売目的ではなかったとあるが、当時の会議録を確認すると、100幅の表装代は販売金額で償却すると記されており、当初から販売することを視野に入れていた様子がうかがえる。長らく社史の記述のみに頼ってきた「事実」とは異なる経営側の思惑、そして続く美術部創設経緯を一次史料より明らかにする必要がある。髙島屋経営史料より、「百幅画会」開催から美術部創設に至る経緯を示す会議録や幾度も練り直された美術部規程案の分析を進める。また、出品100幅のうち所在が確認できているのは、竹内栖鳳≪小心胆大≫(髙島屋史料館蔵)1幅のみである。残る99幅の所在調査を試みる。さらに、髙島屋美術部初期の展覧会および活動について、先行する三越美術部との比較・検討を行う。研究者:成城大学非常勤講師アール・ブリュット(art brut)とは、1940年代中頃にフランス人芸術家のジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet)によって命名された言葉で、精神病患者、受刑者、独居老人等の、芸術界の外側の人々による芸術だと考えられており、英語圏ではアウ匂坂智昭―70―
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