鹿島美術研究 年報第38号
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術におけるフランス近代美術の影響を跡づけることが可能になる。また、1910年まで活動が対話に限定されたブルームズベリー・グループにとって、「マネとポスト印象主義の画家」展は共同で手がけた最初の事業であった。これに対して、同年の初頭に出会い、グループに加わったフライは、創刊時から関与した『バーリントン・マガジン』をはじめとする主要な専門誌に絶えず寄稿するなど、著名な美術批評家として第一線で活躍していた。この両者の立場の大きな隔たりが、ブルームズベリーの芸術をフライの主張に照らして解釈する従来の傾向を強めたことは間違いない。だが、両者の出会いは、同グループに造形芸術という具体的な活動の軸をもたらし、フライには自身と同等の熱意で芸術を追求する仲間を与えた。くわえて、1913年開設の「オメガ工房」において、フライは「触媒のような存在」であり、上下関係や徒弟制度を導入することを嫌ったと伝えられる。したがって、両者の関係性は、実情に即して再考されるべきである。メンバーであったヴァネッサ・ベルやダンカン・グラントの初期の制作活動にまでさかのぼり、かれらがポスト印象主義の芸術に共鳴して形づくった表現を、同時代の芸術動向と対比させつつ個々に精査することによって、それぞれの独自性を浮き彫りにできるものと考えられる。そして、個々の特性を際立たせることで、フライの芸術観との相関関係についても再検討が可能になる。さらに、ブルームズベリー・グループの画家が絵画制作を進めるかたわら、オメガ工房を通じてポスト印象主義の装飾作品を世に送り出すだけでなく、同じ様式で自身の生活空間をも構成しようとした意図について検討したい。当時に近いかたちで室内装飾が保たれている事例は、ヴァネッサやグラントが住んだイースト・サセックス州チャールストンの田舎家やウルフの住まいだった「モンクス・ハウス」に限られるが、同グループの拠点となったロンドンのゴードン・スクエア46番地やサリー州ダービンズのフライ邸をも考察の対象に加えつつ、当時の資料や先行研究、関係者の発言にもとづいて、自身が追求する絵画の様式で日常生活の場をも埋めつくすという特異な試みの意義を捉え直したい。以上から、1910年代の英国で急速に進んだフランス近代美術の受容に照らして、ブルームズベリー・グループの造形芸術の独自性を浮かび上がらせ、同グループとフライの関係性に新たな光をあてることが、本調査研究の狙いである。―73―

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