鹿島美術研究 年報第38号
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って絵画作品や画家のイメージの共有も進んだ時代であった。中世以来の「宋元画」という一元化された枠がさらに固着し、あるいはイメージが混交、枝分かれして煩雑さが増していった江戸時代の舶載画受容は、近代以降に引き継がれたものもあれば、美術史学の研究の進展によって大幅に変化したものもあり、前近代の絵画作品研究の上で混乱を抱えたままである。そしてその混乱が要因の一つとなり、井手誠之輔氏が指摘する宋元仏画研究の遅れにつながっていると考えられる(井手2001)。井手氏は宋元仏画研究の立ち遅れの原因として、寧波からの「お土産品」という認識による実質的研究の軽視や、中世仏画に与えた影響に研究が終始していた点を挙げている。申請者はさらに原因の一つとして、江戸時代に中国絵画のイメージが無秩序に発展し、絵画作品の実像からかけ離れたことによって「宋元画」として伝わる作品の研究を困難にしているのではないかと想定する。近年の研究では、「宋元画」と伝わる作品群に朝鮮絵画が多く混在していることが指摘されてきた。この伝承と作品の様式とのずれは、作品の実像よりも、中国の著名な画家の名を冠するという情報が優先されたことを意味していると考えられる。特に、伊藤若冲は「宋元画」を数多く模写しているが、その中に相当数朝鮮絵画が紛れていることが明らかになっている(福士2008)。本調査研究の対象として取り上げる張思恭はその実作品の乏しさから伝説的な画家として扱われ、研究史上で注目されてこなかった。しかし、張思恭に関する記述や伝承作品を視野に入れることで、実態があやふやな江戸時代における「宋元画」認識を捉える端緒となるだろう。伊藤若冲が伝張思恭筆「釈迦三尊像」を大作「動植綵絵」の中心に据える作品の原本に選択した理由を当時の張思恭受容から探ることは、未だ不明な点が多い江戸時代の「宋元画」受容史の突破口となることが期待される。二点目は、伊藤若冲筆「動植綵絵」並びに「釈迦三尊像」という作品自体の江戸絵画史上の位置付けがより明確になることである。本作品群は、伊藤若冲の大作とされ、鑑賞するにあたっての配置や1幅ごとの年代比定、色料の科学調査、図様の引用元など、多角的視点で研究が進められてきた。しかし、何故東福寺旧蔵・伝張思恭筆「釈迦三尊像」を中央に掛ける本尊の原本としたのかは論の対象とされてこなかった。本調査研究は未だほとんど手がつけられていないこの問題に取り組むものであり、解明を進めることによって、伊藤若冲研究全体にとって重要な意義を有するものになるだろう。―77―

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