選択している)。このような着眼によって、狭義の文学史だけではなく、美術史や産業史との関連を視野に入れた研究を進めていくうち、露伴が持っていた「ものをつくるひと」との人的ネットワークとその意義の解明が重要な課題のひとつとして浮上してきた。美術・産業関係の人物として岡倉天心や岡崎雪聲などと露伴の交友は比較的知られてきたものの、文学研究の側からも美術史研究の側からもいまだ手がつけられないまま残されている課題は多い。こうした露伴と「ものをつくるひと」との人的ネットワークの中で、独特の存在感を放つのが、本研究において対象としている伊藤為吉である。露伴と為吉は、1882年前後に、菊池松軒の漢学塾(迎曦塾)において同窓となり、知遇を得た。1893年、露伴の兄・郡司成忠(1860~1924)が千島列島の探検に赴く際、3時間で組み立て可能な簡易テントを為吉が発明し提供しているが、これはこうした交友関係から生まれたものである。露伴と為吉の交友はその後しばし途切れるが、ちょうど為吉が『職工新聞』を発行していた時期に蘇り、1911年3月、露伴は、自ら求めて為吉と久々に再会している。その日の露伴の日記には、為吉の人物と発明の独創性に対する賛辞が並び、明治初期のベストセラー、サミュエル・スマイルズ、中村正直訳『西国立志編』に出てくるような、ストイックで創意に富む人だと書かれている。また、『職工新聞』とならざしめんこと」を目的とした事業で、いう試みは、職人たちを教育し「気し」とも露伴は書く。為吉との交友を復活させようとしたこの時期、「其の意また可露伴は、親友・石井研堂(1865~1943)の編集した、働く少年向けの雑誌『実業少年』に啓蒙的な少年文学「御手製未来記」を連載していた。この作品では、いまだ世の中でなされていない未来の商業アイディアを数多く書き込み、なにかの事業や発明を思いつくことの重要性を露伴は年少読者に啓蒙しようとする。教育的雑誌で露伴がフィクションを通じて行ったこうした実業的啓蒙と、伊藤為吉が『職工新聞』というメディアを通じて行った実業的啓蒙とは、性質を異にしながらもその大枠において共闘関係を結んでいたのではないかと筆者は予測し、本研究へ至る着想となった。以上のように、筆者は幸田露伴を主対象とする比較文学研究から出発し、それを継続しつつも、さらに領域横断的に研究を発展させるため、本研究を構想した。ろうひん品下陋よきか―79―
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