― 91 ―㊻ 朝鮮通信使船団図に関する研究【構想】近世後期の絵画には、谷文晁や滝沢馬琴ら好事家による実証性への志向を反映する動向が伺われる。本作制作以前の文政・天保期(1818〜44年)における凌煙閣功臣図や水滸伝図をめぐる好事家の動向から、社会階層を問わず「倣古図」として中国絵画を受容し、実証性の関心から「倣古図」が広く共有されたことが明らかになっている(注4)。特に、谷文晁・菊池容斎あるいは滝沢馬琴・■飾北斎等のように好事家から絵師に対して知識の伝授があり、制作に反映されたことは注目される。本作の制作に際して、一信は学僧や仏絵師・中西誠応(生没年不詳)から仏教の知識を伝授され作画に反映しているが、上述の好事家と絵師の関係は、学僧と絵師にそのまま当てはまる。徹定は学僧の中でも特に漢学に精通しており、自伝に「愛古の癖、有り」と記して古物への興味を示している。現在、知恩院には徹定が自ら蒐集し寄進した仏典や古画が多く残っているが、愛古の素養が育まれたのは、好事家と接点があったためではないかと考えられる。好事家・考証家として知られる人物には市河寛斎(1746〜1820)、狩谷棭斎(1775〜1835)等の幕臣や学者がいるが、現在、徹定と好事家の接点は明らかでない。他方、徹定晩年の詩文集草稿において添削を施し、漢詩に造詣が深い大槻盤渓(1801〜1878)、菊池三渓(1819〜1891)、石川鴻斎(1833〜1918)とは、密接な関わりがあったことが知られ、漢学方面における人脈の広がりが想定される。また、仏教に造詣が深かった書家の中村仏庵(1751〜1834)も好事家サロンの一員として知られる。これらの人物と本作周辺の人物、本作と好事家による書物との関連を調査し、具体相を明らかにする。(注4)中野慎之「前賢故実の史的位置」『MUSEUM』)664、2016年研 究 者:西南学院大学 国際文化学部 准教授 尹 芝 惠筆者は、絵画作品を通した日韓比較文化研究を続けている。長い交流の歴史を持つ両国の関係の中でも、特に江戸時代の外交使節団である朝鮮通信使を取りあげ、絵画作品に現れた異文化の問題に注目してきた。江戸時代260年余りの間、戦争のない平和な時代に構築された異国観は屈折のないものであるからである。日韓両国の絵画に表された朝鮮通信使を精細に検討することによって、両国の価値観や異民族観を把握
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