― 99 ―� 江戸中期の木挽町狩野家における画風の継承研 究 者:板橋区立美術館 学芸員 印 田 由貴子木■町狩野家2代目当主・狩野常信(1636〜1713)は探幽亡き後の狩野派を牽引した人物である。安信の在世時は狩野派内での地位が向上しなかったが、69歳に法眼に叙任され、その後数年で探幽しか与えられなかった法印に叙された。探幽の画風をよく伝えた一方で、桃山期の巨木表現や雪舟系の花鳥図など古画に倣った作品も制作した。また和歌を得意とし、公家の注文や婚礼調度にみられるやまと絵の制作にも多く携わっていた。広い画風を持っていたと考えられるが、松嶋雅人氏は常信画について探幽様式の装飾化と繊細化の傾向と、合理的な空間構成を指摘し、探幽様式からの変化の理由の一つとして幕府の政治向きが文化政策も含めて京風を採用したことを推察している。また、息子で3代目木■町狩野家当主である周信(1660〜1728)も繊細な画風の作品を残し、近年薄田大輔氏によって漢画作品を中心に筆法が検討され、常信から線描主体の描法を受け、さらに存在感を増した粗放な筆致も目立つ独自の筆法に変化したことを指摘された。これらの研究を踏まえ、繊細と称される特徴や京風の文化政策、公家衆との関わりからやまと絵主題も検証していく必要性がある。まず、常信と周信によるやまと絵作品から、画風の特質と周信への継承について考察する。常信筆「新六歌仙画帖」(徳川美術館)と周信筆「六歌仙画帖」(板橋区立美術館)はともに濃彩で新六歌仙を描いた画帖形式の作品である。このような細密濃彩のやまと絵は、探幽以降の江戸狩野派によって、新やまと絵と呼ばれる淡彩を用いた軽妙な筆致の様式とともに制作されてきた。周信のやまと絵作品は多くなく、新発見の板橋区立美術館本は貴重な濃彩のやまと絵作品となる。また、「波に千鳥・帆掛船図」(仙台市博物館)は歌意図と考えられるが、このような淡彩のやまと絵作品も比較することで、探幽以後のやまと絵制作をどのように進めたのか検討したい。次に、常信や周信の同時代の民間画壇の絵師たちに対する意識を考察したい。17世紀後半から18世紀前半には菱川師宣による肉筆浮世絵の創始や久隅守景や英一蝶による風俗画、また京都にいた尾形光琳は新たな顧客層を獲得するべく江戸に数年滞在した。一蝶と光琳、常信は津軽藩のような共通する大名の顧客から互いに存在を認知していた可能性が考えられる。常信筆「春秋耕作図屏風」(馬の博物館)の収穫の場面では、芸能者たちによる踊りが描かれている。同時代の耕作図の中で、このような風
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