鹿島美術研究 年報第39号
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 長崎における美術への明清文化の影響に関する調査研究― 100 ―俗表現は珍しい。またメトロポリタン美術館には周信による美人図が所蔵されている。同時代の民間画壇の絵師たちとの作品の比較によって、時代に沿った柔軟な注文に応えていたことを検証したい。以上によって、木■町狩野家の中で研究が手薄であった部分を進めていきたい。また、民間画壇の絵師たちは、大名たちにも受容があり、それら新興勢力に対する注文や趣向を狩野派としてどのように意識していたのか考察することで、江戸狩野派研究にさらなる広がりを持たせたい。研 究 者:長崎歴史文化博物館 研究員  長 岡 枝 里本研究では、長崎の美術における明清時代の中国文化の影響を明らかにすることを主眼とし、まずは長崎、特に長崎市内の寺院の美術資料の伝来の状況を明らかにするべく什物の調査を行う。筆者は現在までに、唐寺である興福寺・福済寺・聖福寺の什物の悉皆調査を完了している。この調査は主に黄檗関係の資料を目的としたものであったが、結果として黄檗に関係する資料の他にも様々な資料を確認した。大まかな内訳は以下の通りである。a) 黄檗に関係する資料(黄檗僧の書、絵画、仏像類)b) 直接黄檗には関係しない長崎の人をはじめとする日本人の書画c) 直接黄檗には関係しない中国製の書画以上のa)〜c)は更にそれぞれ寺院が創建された江戸時代前期から現代までの資料で構成されている。中国製の書画は多くはないが、これまで存在の知られていない資料をいくつか確認した。また、隠元以降中国人僧が渡来していた時期までは黄檗僧の書画や頂相類が多いが、中国僧が渡来しなくなった後は、中国人商人、いわゆる来舶清人と呼ばれる人々の書画や、彼らと交流した長崎の文人たちの書画が増えている。これは長崎に渡来してくる中国人の変化と密接に関係していると考えられる。長崎における美術は、黄檗・沈南蘋・来舶清人などいくつかの区分ごとに別々に語られることが多いが、実際には渡来する中国人たちの出身地域や、渡来の目的などが複雑に変遷しており、日本側、中国側双方の事情を考慮して慎重に検討される必要がある。江戸

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