鹿島美術研究 年報第39号
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 長崎市内の黄檗寺院のうち、前述した三ヵ寺以外の崇福寺および霊源院の調査を行う。特に崇福寺は隠元隆琦が興福寺に続いて晋山し、かつ隠元の高弟即非如一が中興開山として住持をつとめた重要な寺院で、更に代表的な資料に呉彬款《仏涅槃図》(重要文化財)がある。崇福寺は他の唐寺と比べて過去の調査とそれに基づく研究があるが、画像データ等はほとんどない上に、黄檗に関わりの薄い資料は調査の対象外とされていた可能性が高いため、本調査では可能な限り悉皆に近い調査を行いたい。霊源院は長崎市中心部から外れた地にある黄檗寺院であり、元は真言宗であったとされるが、江戸時代に中国人商人によって将来された魚籃観音像を本尊として再興した。長崎における中国人の影響を検討する上で重要な寺院である。この二ヵ寺の調査によって唐寺の調査がほぼ完了する。これらの内容は長崎、そして日本美術への黄檗文化の影響を詳細に研究する上で最も基礎的な情報となる。また、調査の情報は可能な限り、多くの研究者がアクセス出来るようにしたい。  長崎には黄檗寺院以外にも中国絵画やその影響を色濃く受けた資料が伝来している。代表的なものに春徳寺の《仏涅槃図》や悟真寺の《阿弥陀三尊像》、延命寺の《釈■如来坐像》などがある。この他にも大正時代に編纂された『長崎市史』には中国絵画の伝来の記録や、中国人たちが仙人の像や絵画を寄進した記録などが記載されており、長崎へ移住した住宅唐人、貿易商として渡来した来舶清人たちは黄檗寺院だけでなく、長崎のさまざまな寺院と密接な関係があったことが伺える。中国人であれば唐寺の檀越と誤解されるが、実際には住宅唐人の家系であっても黄檗以外の寺院に墓所があることが多い。その背景は不明瞭なことが多いが、唐船が黄檗寺院以外にも銀を頻繁に寄進している記録もある。調査では寺院の什物全体を把握し、その内容を整理・分析する。特に中国に関係すると思われる資料について重点― 101 ―時代から近代を通した資料が伝来している可能性の高い寺院の什物を調査することで、特定の分野の資料はもちろんのこと、長崎への中国からの文化の流入の実態を明らかにすることに繋げたい。加えて、これらの情報は、長崎の美術だけでなく日本の近世美術研究にも大きく寄与するものであると考えている。以下、これまでの調査とそこから得られた見地を元に、今後の調査およびそこから検討する内容についての構想を述べる。1)黄檗寺院の調査(崇福寺・霊源院)2)黄檗宗以外の寺院の調査

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