鹿島美術研究 年報第39号
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― 103 ―一部の階級にとどまらず、広く共有されていた。また、実物の草や虫に関する娯楽も豊富であった。当時刊行された園芸書が物語るように、朝顔などの植物の品種改良が進み、その出来栄えを競う品評会が開催されていた。また、かつては王朝の人々の嗜みであった虫聴きを、市井の人々も楽しんでいた様子が『江戸名所図会』などに表されている。草、虫を愛する文化はこの時代において、かつてない拡がりをみせ、醸成されていった。これらの身近な生き物を題材とした美術作品は、欧米に伝わり、西洋の美術にも影響を与えた。例えば、『画本虫■』はシーボルト邸で公開され(北山研二「グローカル現象とジャポニスムについて」『グローカリゼーションと文化移転』成城大学民俗学研究所グローカル研究センター、2011年)、『北斎漫画』はガレに影響を与えたことが広く知られている(「北斎とジャポニスム」展、国立西洋美術館、2017年)。更に、大勢の人々が虫と草に美を見出し、親しんだ様子は、小泉八雲を始めとして、来日した多くの外国人たちを驚かせた。以上のように、18世紀以降の草虫画は見るべきものが多くあり、研究する価値がある。今回主に取り上げる《夏秋渓流図屛風》、《檜蔭鳴蝉図》も、18〜19世紀に育まれた自然に対する鋭い観察眼によって生み出され、受容されたものであろう。だが、先に述べたように様々な要素が含まれているが故に、この18世紀以降の草虫図は研究を進めるのが困難な状況となっている。実際に、今橋理子氏も「江戸の虫画の様相は実に複雑で、一筋縄で説明することは極めて難しい」(『江戸の動物画』、東京大学出版会、2006年、p125)と述べている。それでも、この虫を愛する文化が広まった時代の草虫表現について研究を進めることで、大きく言うならば、我々日本人と虫の関係性を見つめ直すことが出来るのではないかと考えている。というのも、保科英人氏が、「“虫好きは日本人の専売特許”との行き過ぎた振り子を若干正常に戻したい」(「古事記・日本書紀に見る日本人昆虫観の再評価」伊丹市昆虫館研究報告、2017年、p1)と述べるように、日本人と虫との関係性に関する言説が独り歩きをしている傾向があると指摘されている。この傾向は特に鳴く虫の音を楽しむ文化について言及する場合に顕著にみられ、例えば、『虫と人と本と』(小西正泰、2007年)には西洋人と日本人の脳には構造上の違いがあり、西洋人は虫の音をただの雑音として認識するという学説が紹介されている。だが、ドイツには蟋蟀を飼育する文化があり(加納康嗣『鳴く虫文化誌―虫聴き名所と虫売り』HSK Books、2011年)、フランスもプロヴァンス地方で

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