近代大阪における南画壇の動向 ―矢野橋村と大阪美術学校を中心に―― 108 ―我々にまでも影響しているが、彼の歴史的評価を固めたのは四王呉惲だからである。明末の時点では、董其昌の多様な側面のうちどの部分が継承されていくかは未だ定まっていなかった。四王呉惲は、董其昌の「南宗画」を変容・拡張させ、より安定した普遍的な様式を目指し、幅広くかつ徹底した古画研究を行った。これが康熙帝の厚い支持を得るに至り、董其昌の死後半世紀を経て初めて彼の「正統派の祖」としての地位が確定した。そのため、董其昌と四王呉惲の研究は併行的に進めて深めていくことが有効である。しかし、董其昌から四王呉惲への変化の具体的様相については、現存作品の分析や細かな編年に基づく考察が十分なされてきたとは言えず、画論と実作の関係についても未知の部分が大きい。本研究はこのような明末清初画壇の動きについて、作品と文献に即して検討するものである。さらに、本研究で直接扱う予定はないが、日本の文人画の画論や学習対象となった清画には、王翬や惲寿平の影響を経たものも多く、本研究の問題意識は広く18世紀以降の東アジア絵画史全体と関わるものであると言える。研 究 者:石川県立美術館 学芸員 谷 岡 彩目的・意義・価値本研究は、矢野橋村(1890-1965)および大阪美術学校の研究を進めることで、東アジア美術としての南画の近代化と、制度的な美術教育による伝統的な絵画の革新という観点から、近代大阪画壇を再検討することを目的とする。橋村は、南画の近代化と近代的美術教育により大阪画壇を牽引した画家である。文展(文部省美術展覧会)などで活躍する一方、日本南画院をはじめ多くの美術団体を主導した。直木三十五とともに主潮社を設立し、大阪美術展覧会や大阪市美術協会には創立から参加して、大阪の文化芸術の刷新を図った。大正13年には大阪美術学校を設立、校長に就任している。同校はカリキュラムや校舎も充実し、女性や韓国籍の学生も受け入れ注目される。卒業生の女性画家・融紅鸞は日展で活躍し、韓国籍の白榮洙は韓国で文化銀冠賞を受賞した。橋村没後は、望月信成編『矢野橋村名作選集』(清文堂、昭和40年)を基礎として、「矢野橋村展―近代水墨画の精粋―」(枚方市民ギャラリー、平成14年)などの展覧会を通じて再評価され、中谷伸生「大阪の文人画家・
元のページ ../index.html#123