鹿島美術研究 年報第39号
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― 109 ―矢野橋村:『青飛白走帖』に見られる東アジアの文人趣味」(『関西大学博物館紀要』13巻、平成19年)では、東アジアの美術としての再検討という新たな課題も提示された。本研究で行う実見調査に基づく実証的な橋村研究は、大阪画壇ひいては東アジア美術史の再検証に繋がる。また別の切り口として大阪美術学校に注目することで、作家育成という近代日本における美術教育とは異なるあり方の可能性を示すことができるだろう。構想① 矢野橋村を中心とする近代大阪における南画壇の研究●基礎研究(作品目録の作成と落款印章の分析)これまで昭和初期以前の基礎研究を行ってきた。引き続き実見調査を行い、調査した作品と先行研究や当時の資料に載る図版のうち、昭和初期以降の作品を整理し、目録を作成、落款印章の分析を行い、橋村の画業全体の基礎研究を完了する。●橋村の画業初期における人的交流の影響『闡幽帖』(一帖、個人蔵)は、今年4月の新出資料である。明治42年春から夏にかけて橋村、師・永松春洋、女性画家・河辺青蘭他9名が描く。橋村が春洋に入門した年に制作され、橋村の画業最初期の作例であるとともに、その時期の人的交流を知る上で貴重な資料である。本画帖を手がかりに、これまで未着手であった橋村の画業初期における画風や制作意識への人的交流の影響を明らかにする。② 大阪美術学校を中心とする近代大阪の美術教育に関する研究●設立背景、運営、カリキュラム、校舎等当時の大阪の社会的・文化的背景を考慮しながら、「我等の使命」(『大阪美術学校々友会月報』創刊号、昭和2年5月)等の橋村の著作やその他枚方市に残る資料、スクラップブック(個人蔵)を調査・整理する。●教授陣・生徒の美術教育に対する意識斎藤与里らの教授陣と胡桃沢源人ら生徒の画業や、現場での教育のあり方は必ずしも明らかではない。上記画家の作品の実見調査と著作の検討により、それぞれの画風展開と創作意識のあり方を調べ、教授陣と生徒の美術教育に対する意識を考察する。●大阪における他の画学校や画塾との比較大阪には、森琴石らの浪華画学校(明治17年)、松原三五郎の天彩画塾(明治23年)、赤松麟作の赤松洋画塾(明治40年)、北野恒富の白耀社(大正3年)、小出■重

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