― 17 ―示歴が無く、同美術館の非公開登録ファイルに「ティムール朝」時代(1370―1507年)、または「1400―1500年」のイラン製と記されているだけであったという。神田氏は、この《ドーハ燭台》について、まずその表面に記されているペルシア語詩銘文が、ペルシア語神秘主義詩の主要なモチーフのひとつである「蛾と蝋燭」の寓意を主題とした詩であることを明らかにした。そして表側の装飾に見られる動物像や植物文様の図像分析と、それと同様の装飾モチーフを持ち、いずれも1500〜1600年代作とされる他の作例との比較を通じて、《ドーハ燭台》の制作年が、ドーハ・イスラーム美術館の登録ファイル記載の想定年代より、ほぼ一世紀後の1600年代初頭であることを明らかにした。また、《ドーハ燭台》の裏側には、表側のペルシア語詩銘文とは異なる書体で、この燭台が、カースィム・アリーの息子アガー・ワリー・ハーンによって「イマーム・ムーサー・カーズィム…の光輝く清浄なる敷居に寄進」されたという銘文が記されている。すなわちこの燭台は、当初から宗教的儀式のための祭具として制作され、イラク中部バグダッド郊外の都市カーズィマインにあるイマーム・ムーサー・カーズィム■であるとされている聖■に寄進された。とすれば、イランで制作された《ドーハ燭台》がイラク領内にある聖者■に寄進されたことの宗教的、政治的意味を考察しないわけにはいかないだろう。というのは、《ドーハ燭台》が制作された1600年代においてイラクは、サファヴィー朝西隣のオスマン朝の支配下にあり、サファヴィー朝の領民にとっては、敵対するオスマン朝内に位置する聖■に巡礼し、寄進を行うことは、必ずしも容易ではなかった筈だからである。研究報告は、このような《ドーハ燭台》背景を明らかにした上で、敢えてイマーム・ムーサー・カーズィム■に寄進された理由を、この聖■に祀られているムーサー・カーズィムが、サファヴィー朝の歴代君主と領民たちにとって、最も重要な聖者の一人であったためと結論づけている。以上、二つの新しい知見を提起した神田惟氏の研究は、詳細な図像分析と関連史料の博捜に基く十分な説得力を持つ優れたものとして、高く評価される。描かれることがあるが、この猿曳図の主題について考察したものである。まず、先行研究を纏め「猿曳図」の主題が、南宋時代の院体画家・梁楷の作と伝えられる「村田楽図」に由来することを推察し、さらにこの「村田楽図」が南宋時代の(文責:高階秀爾)荏開津氏の研究は、日本の中世16世紀から17世紀に描かれた漢画の中に猿曳の図が
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