鹿島美術研究 年報第39号
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  2.第二次世界大戦下におけるピエール・マティス画廊の役割    ─ヨーロッパとアメリカの美術交流を中心に―  東京国立近代美術館 研究員 長 名 大 地十五句には「村優競ひて楽を携へて具に至る」とあって、村優たちが楽器を演奏していることが分かる。「猿曳・酔舞(奏楽)図」の主題は、この「村田楽」であったものと考えられてくるわけである。この「村田楽」については、浜一衛『日本芸能の源流 散楽考』(角川書店、1969年)に言及があり、それが南宋時代の雑劇の演目の一つであったことが知られる。長名氏本発表では、ヨーロッパとアメリカの美術交流において重要な契機となった出来事として、第二次世界大戦下にニューヨークのピエール・マティス画廊で開催された「亡命芸術家」(■■■■■■■■■■■■■■■■)展(1942年3月3日〜28日)を取り上げる。同展は、ナチスによる迫害から逃れ、アメリカへと亡命を果たした芸術家が一同に会した展覧会として知られている。出展した14名の芸術家の中には、マックス・エルンスト、アンドレ・マッソン、イヴ・タンギー、アンドレ・ブルトンのほか、ピート・モンドリアン、フェルナン・レジェ、マルク・シャガールら、モダンアートを代表する面々が含まれていた。この展覧会は、当時の美術様式において双璧とされたシュルレアリスムと抽象美術の代表者が流派を超えて集う稀有な機会となったと同時に、ヨーロッパでは到底実現できなかった取り組みという点において、亡命が生み出した一つの成果と見なされた。また、先行研究においては、参加者のおよそ半数をシュルレアリストが占めていたことから、アメリカでのシュルレアリスム運動を本格化させる端緒として位置付けられてきた。本発表では、そうしたアメリカにおけるシュルレアリスム運動と「亡命芸術家」展の繋がりに焦点を当てるだけでなく、この交流がアメリカ美術界にもたらした「新たな美術の中心地」という意識の萌芽にも注目したい。まず、知名度に比してその内実が知られていない「亡命芸術家」展の再構成を試みた上で、亡命芸術家に関する同時代評を確認する。それらの同時代評を見ていくと、ヨーロッパから第一線の美術家が到来したことを歓迎する内容から、いかにして彼らを乗り越え、ア― 21 ―

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