鹿島美術研究 年報第39号
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※ 新型コロナウイルスの影響によりオンラインによる参加となった。 4.ルネサンスのイタリアにおける「キリスト哀悼」彫刻群像表現の研究 慶應義塾大学大学院 文学研究科 博士課程単位取得退学 藤 﨑 悠 子ム・シーア派のイマームたちの■に寄進されており、かつ、その内の2点が、《ドーハ燭台》と同様、ペルシャ語の神秘主義詩を銘文として有しているためである。17世紀後半のペルシャ語詩人伝には、カーシャーン出身の詩人であり、銅細工職人でもある人物の伝記が記録されているが、この人物が父から銅細工と詩の技芸を継承したという記述からは、近世のこの都市において、工芸と詩芸が密接な関係にあったことを看取することができる。では、《ドーハ燭台》の寄進者は、何故、サファヴィー朝支配下のイランから、1600年当時オスマン朝支配下にあったイラクのイマーム・ムーサー・カーズィム■に、わざわざこの燭台を寄進したのだろうか。ここで、サファヴィー朝の歴代君主たちが、自らを、預言者ムハンマドの血統に連なるこの聖者の末裔である、と主張し、その系譜を歴史書の記述や宗教施設・墓石の銘文などによって流布させることによって、自身の統治正当性を世に顕示していたという事実を指摘せねばなるまい。中世以降、詩芸・工芸に習熟した工匠が多く集まり、十二イマーム・シーア派信徒がマジョリティを占める都市であったカーシャーンから、バグダード近郊のイマーム・ムーサー・カーズィム■に対して寄進された《ドーハ燭台》は、この燭台の寄進者による、聖者イマーム・ムーサー・カーズィムに対する崇敬(或いは、サファヴィー朝君主に対する忠誠)の証と見做すことができよう。藤﨑氏「キリスト哀悼」の場面はもともと福音書内には記述がないが、「十字架降下」から現在のイタリアには、「死せるキリストへの哀悼」の場面を再現した彫刻群像作例が150点ほど確認される。これらは特に15世紀後半から16世紀前半にかけて北イタリアとトスカーナ地方を中心に制作され、テラコッタや木彫によるこうした群像の大部分は、再現的彩色、等身大のスケール、演劇的な表情と身振りを備え、今もなお聖堂の一角に「彫像の劇場」を創出している。― 23 ―

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