鹿島美術研究 年報第39号
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― 38 ―友好諸国の関わりについて新知見の提示が期待できる。また、政治的場面における美術品の寄贈には長い歴史があるが、第二次大戦においても重要な役割を果たした。たとえば建国十年を記念した満洲国への作品寄贈(1942年)では、松林桂月と有島生馬が現地で贈呈式に参加するなど、パフォーマンス的要素も含まれていた。本研究は、こうした美術と寄贈および献納に関する研究の発展に寄与することができる。安松みゆき氏の研究が明らかにしているように、1939年2月に開催された伯林日本古美術展覧会は日独の美術関係者が長年培ってきた交友関係を存分に生かし、名だたる古美術品蒐集家の協力により実現した展覧会であった。ドイツ側の企画者キュンメルは1929年から動き出し、1938年には交渉のため来日するなど入念に準備を進め、出品作品の質量ともに最上級の展覧会を成功させた。これとは対照的に、党大会参加に伴う美術品寄贈は早急に進められたプロジェクトであった。1939年7月半ばに王子製紙会長藤原銀次郎の派遣が決定し、8月1日には藤原が持参する贈答品の事前展観を開催、その5日後にはドイツへ向けて出発という慌ただしさである。古美術蒐集家としても知られる藤原だが、贈答品の選定には国際文化振興会副会長の岡部長景が大きな役割を果たした。結果として、すでに尺貫法存続連盟に寄贈されていた日本画作品がドイツへの贈答品へと切り替えられたため、横山大観ら当該作品の作者は図らずもドイツ政府へ作品を献上する栄誉を得た。また美術通とされたヒトラー個人への贈答品として、室内装飾品1点、すなわち京都高島屋作製の綴織壁掛けが用意されるなど、産業界の貢献もあった。つまり、寄贈の準備が短期間で整った背景には、国家総動員体制のもと盟邦ドイツへの敬意を表すべく、日本の美術界および産業界、政財界が迅速に連携できる態勢があったと推察される。一方で、作品寄贈の直前には独ソ不可侵条約締結により平沼内閣が総辞職、まもなく第二次大戦が開戦し、ナチ党大会は中止となるなど、国際情勢も激動の時期を迎えた。作品寄贈自体は無事に遂行され、ベルリンでは記念の展覧会も開催されたが、その後の作品の行方は不明である。受贈先のドイツ国立博物館東アジア美術コレクションは、1945年の爆撃および敗戦後の接収により大きな損傷を受けた。作品寄贈の効果や影響を把握するため、受贈作品の現地における評価や展示方法も含めて詳しい資料調査が必要である。本研究はこうした流動的な状況の分析を通して、戦中期の日独文化交流における機動性や共通意識を浮き彫りとし、終戦期の混乱に巻きこまれた美術品の行方に迫る。

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