鹿島美術研究 年報第39号
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― 43 ―⑬ 近世中後期における画家と北関東の受容者の交流について大画面の中に多数配置している。プティ・パレ階段室の天井画《フランス美術史》においては、歴史的に重要な絵画に描かれた人物像をそのまま取り入れるなど、より直接的な引用を行っている。さらに興味深いのが、そうした引用の中に、前者では音楽家や歌手、バレエダンサー、後者では画家の肖像が織り交ぜられている点である。このように、虚構である創作物と、実在の人物の肖像を、画中画の形式を用いず同一空間内に並置する手法は、きわめて斬新なものと言えよう。ドニの壁画制作において、すでに影響が繰り返し指摘されているピュヴィ・ド・シャヴァンヌ以外にも、彼が参照した可能性がある他の画家の作品を調査、実見し、比較することで、その着想源を探るとともに、独自性を明らかにしたい。また、ドニと同時代あるいは後進の画家による作品についても調査を行い、後世への影響を検証する。ドニの後期の画業については、モダニズムに逆行する具象的な表現が、反動的な「古典回帰」と捉えられ、再評価を難しくしている状況がある。しかし筆者は、画面の抽象化とは別の観点から、作品の先進性と次世代への影響を指摘できるのではないかと考えており、本研究をその一端として構想している。また、制作経緯の調査は、当時のフランス画壇におけるドニの立場や交友関係を明らかにすることにつながるだろう。画家としての名声の高まりと共に、彼が多くの注文を得られた背景には、批評家や政治家との交流という政治的な理由もあった。そのうち、パリのシャンゼリゼ劇場や、シャイヨー国立劇場、ジュネーヴのパレ・デ・ナシオンなど、いくつかの現場では、かつてのナビ派の仲間たちと協働している。アカデミー・ランソン、アトリエ・ダール・サクレなど、彼が指導を行った教育機関の教え子も、アシスタントとして制作に参加していた。1910年頃から、ドニはアカデミー・ランソンでの指導を通じて、梅原龍三郎や矢部友衛ら、日本の画家たちとも直接交わる機会を持っていた。日本での紹介も盛んになっていくこの時期、彼が注力していた公共建築装飾の仕事に目を向けることは、日本における当時のドニ受容の文脈にも何らかの成果をもたらすものと考える。研 究 者:佐野市立吉澤記念美術館 学芸員  末 武 さとみ絵画の制作において、発注者・受容者の意向・教養が大きくその内容に関わってく

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