鹿島美術研究 年報第39号
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― 47 ―となる。これまでの調べで、聴雨の評価が高まった1930年代半ばの2点の基準作を追加することができた。また作品の実見によって30年代末の京都時代と思われる作品に、写実味を取り入れようとする表現が確認され、日本美術院の線描表現を引き継いだ中にも、聴雨独自の研究が加えられ微妙に変化して行ったことが想像された。それから、聴雨が幼少から文学や芝居を愛好し、文学的な感情を絵画にも描出しようとしたことは、画家の言葉や当時の作品評にはあるが、そうした特徴は今日まであまり光が当てられていない。聴雨の文学への造詣の深さ、当時の評の意味を知る上でも、作品の図様に関する情報を収集していくことが必要である。また、日本美術院での活躍以降、図らずも伝統的な立場の継承を期待された聴雨であるが、青樹社時代に国画創作協会、とりわけ村上華岳に注目し、後年まで作品を所有して眺めるほどに憧れたことも興味深い。これら、これまで聴雨の作品を断片的に見てきて生まれた推測を、今後は具体的な作品の観察と資料収集の手を広げることで裏付けを探り、より明確な輪郭を持ったものへとして行きたい。聴雨は、戦前戦後で日本画評価が一変する時代に生き、特にその非難の的とされた伝統日本画の継承者として■藤するなど、常に外的な影響と内的な問いの中で制作していった。聴雨の画業をかみ砕くことが、この日本画苦難の時代をはじめ、聴雨の相対した各時代の事象に対する画家の反応として、美術史に一つの事例を添えることにまで繋がれば幸いと考える。現在、聴雨の遺族と連絡が取れる状態にあり、聴雨研究に関して協力的である。《お産》(1932年)の嬰児のモデルである三女の波つ美氏は、聴雨の制作や作品をめぐる出来事をよく記憶しており、その記憶から真贋に関する注意喚起を受けることもあった。現在はご高齢のため、子息の幸博氏を仲介して質問に回答いただくかたちを取っているが、波つ美氏から語られる証言を記録に残す機会ともしたい。

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