― 59 ―㉔ 宮宿における景観イメージの変遷と広重の名所絵研 究 者:名古屋市博物館 学芸員 津 田 卓 子本研究は、尾張国宮宿(正式には熱田宿、現愛知県名古屋市熱田区)における景観イメージの変遷を明らかにした上で、歌川広重(1797〜1858)のモティーフ選択について再評価を行ない、あわせて広重の作例が他絵師へ与えた影響について考察することを目的とする。江戸時代後期の浮世絵師、歌川広重は「東海道五拾三次之内」(天保5〜7年[1834〜36]頃、以下「保永堂版」)をはじめとして、名所絵の評価が高く、浮世絵における名所絵研究も彼の作例を中心として進展してきた。今回対象とする宮宿は、美術史においては保永堂版を含めた、いわゆる「東海道物」の一図として言及されることが多い。いわば■物を構成する一要素として横軸で語られてきたが、本研究は宮宿という土地に着目し、同地のイメージを縦軸で通観しながら、広重作品の位置付けを再検討する試みである。そもそも尾張は江戸・上方の絵師だけでなく、高力猿猴庵、小田切春江、森高雅といった地元絵師による作例に恵まれ、また地域史の蓄積があるにも関わらず、名所絵についての研究が深まっているとは言い難い。近年、名古屋城については歴史学の観点から論究が成されたものの、美術史側のアプローチにいたっては、尾崎久弥氏が昭和38年(1963)と同45年(1970)に収集家目線から、宮宿、鳴海宿、名古屋を主題とするいくつかの作例を紹介するに過ぎない。そこで尾張名所絵研究の端緒として、まず、熱田社の門前町、宿場町として栄え、「東海道物」を含めた絵画作例が豊富に残る宮宿をとりあげ、同地の近世における景観イメージの変遷について考察する。これにより、祭礼習俗「馬の塔」を主題とした「東海道五拾三次之内 宮 熱田神事」(保永堂版)の特異性があらためて浮き彫りにされるものと考える。またすでに先学に指摘のあるとおり、広重は天保8年(1837)の写生旅行以後、『木曽路写生帖』(大英博物館蔵)に基づき、「馬の塔」ではなく「宮の渡し」を繰り返し描くようになっていく。このイメージが既存の景観イメージとどのような差異があるのか、上述の分析結果と照らし合わせながら同時代の地域資料と比較することで、明らかにし得ると考える。加えて同イメージが後世の浮世絵師たちに、どのように継承されていったか、また地元の絵師にどのように影響を与えたか、近年進展する尾張の地域史の成果をも横断することで、同地の景観イメージを立体的に捉
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