鹿島美術研究 年報第39号
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― 60 ―㉕ フランチェスコ・ボッティチーニ《パルミエーリ祭壇画》思想背景の再検討―ルネサンス期フィレンツェにおけるオリゲネス思想の受容をめぐって―え直しつつ、その展開と伝播を解き明かす。一地域の景観イメージを通観するなかで広重の名所絵を捉え直し、その影響を解明することは、広重の画業を理解するにとどまらず他絵師の図様展開の分析においても有用であり、浮世絵における名所絵研究にとって重要な課題であると考える。また広重と地元絵師の作例を具体的に検証することで得られる本研究の成果は、中央と地方の図様伝播の在り方にひとつの視座を示し得るだろう。さらにいえば、宮宿が人々にどのように認識され、表現されてきたかを明らかにすることで、尾張の名所意識を探る地域史への貢献が期待できる。尾張国全域の景観イメージの変遷と展開を明らかにすることを将来構想として念頭に置きつつ、その手がかりとして本研究に取り組みたい。研 究 者:京都芸術大学 非常勤講師  秦   明 子本研究が対象とする《パルミエーリ祭壇画》(1475■77年)は、人文主義者マッテオ・パルミエーリ(1406■1475)が自らの墓所礼拝堂のために制作させた作品であるが、注文主の死後、オリゲネスの思想が反映されていると考えられたために非難され、常に「異端」であるか否かの議論を呼んできた特異な経歴をもつ作品である。本作品はこれまでおもに、以下の二点を論点として考察されてきた。①トレント公会議(1545■63年)以前に「異端的絵画」とみなされた唯一の作例として。そして、②注文主であるパルミエーリが晩年に著した長編詩『生命の都』(1455■64/72年)との関連においてである。こうした論考の多くは、芸術家にとっての作品の神学的正当性の是非や、詩の内容に準じた図像学的な特異性の有無を論じるものであるが、作品の「異端」的側面に焦点をあてていることは共通している。本作品を考察するうえで、長い歴史のなかで「異端」的であるという言説がついて回ったことは相即不離の事実である。しかしながら、初期ルネサンスのフィレンツェにおいて、オリゲネス思想の再興という思想的動向があったことは看過されるべきではないだろう。フィレンツェでは14世紀の終わりよりギリシア思想の積極的な受容が行われており、聖書の■解においても、オリゲネスを含むギリシア教父やラテン教父たちのテク

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