― 61 ―ストが早くから流入していたことが知られている。しかしながら、そうした高度に知的な環境が形成されたその詳細は等閑に付されている。本研究ではまず、1420年〜70年代というこれまで思想史上看過されてきた時期に、オリゲネスという多分にヘレニズム的な要素を含むギリシア教父の思想がフィレンツェで再興したその背景を明らかにするため、この時期のオリゲネス思想の受容において中心的な役割を果たしていたアンブロージョ・トラヴェルサーリ(1386■1439)周辺のネットワークを再構成する。次に、この時期のフィレンツェで受容された『創世記講話■■■■■■■■■■■■■■■■』や『諸原理について■■■■■■■■■■■』といったオリゲネスのテクストは、如何なる点がこの時期の知識人たちにとって意義をもつものだったのかを具体的な作例にもとづいて検証していく。実際、1950年代に早くもヴィントが指摘したように、オリゲネスの思想は視覚芸術にも影響を与えており、15世紀前半のフィレンツェ美術において、――すでに限られた作例ではあるものの――その影響を見いだすことが可能である。注文主であるパルミエーリがオリゲネスの思想に傾倒していた以上、ボッティチーニによる祭壇画も、フィレンツェにおけるオリゲネス思想、延いてはギリシア思想の受容というより大きな文脈のなかで理解されるべきである。したがって、この祭壇画を初期ルネサンスのフィレンツェで展開されたオリゲネス思想の再興という思想的潮流のなかに位置づけ、作品をより巨視的な視点から捉えなおすとともに、オリゲネスの思想がフィレンツェ美術になした重要性と特殊性を分析することが本研究の目的である。また、オリゲネスの思想の中心的なテーマのいくつかは、たとえば占星術的な運命論と自由意志との関係など、1470年代以降に活躍するフィレンツェの人文主義者たち――所謂「アカデミア・プラトニカ」の人文主義者たち――にとっての関心事とも重なっていた。オリゲネスの思想は彼らにとって、常にキリスト教神学からの逸脱という危険性を孕むものであったにもかかわらず、きわめて魅力的なものだったのである。したがって、1420年代以降のフィレンツェにおいて、オリゲネスの思想が再興されたその背景を明らかにし、また、オリゲネスの思想の如何なる点が、当時の知識人たちにとって意義をもつものだったのかを具体的に検証することは、1470年代以降華々しく開花するルネサンスを、如何にフィレンツェが準備したのかを思想史の文脈において明らかにすると考える。
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