― 65 ―㉘ ルネサンスのモノクローム木彫像―「対ペスト」像としてのファイト・シュトース作《聖ロクス》を中心に―の思想行動におけるその原点についても注目しなければならないと筆者は考えている。同時代の蒟醤の重要無形文化財保持者、磯井如真(1883■1964)と並び、讃岐漆芸の各方面に多大な影響を及ぼした音丸耕堂の彫漆表現と創作活動に関する多面的考察は、今日に至る新たな讃岐漆芸として成立していく過程及びその要因を再検証するために必要不可欠な要素であり、音丸耕堂の工芸に関する独自の観念の形成において多大な影響を及ぼしたと考えられる。音丸自身は幼い頃から徒弟制度によって訓練され、近代美術教育が展開されていた香川県立工芸学校や東京美術学校で学ばなかった。これは同時代の多くの漆芸家たちと最も大きく異なる点であるが、一方で同校の卒業生である磯井如真や、彫金家の北原千鹿(1887■1951)、大須賀喬(1901■1987)らと交流を深めながら、当時最先端の美術の潮流を積極的に学んでいた。つまり、漆芸の垣根を越えて他の分野の芸術家たちからも多大な影響を受けていた点こそが、音丸が讃岐漆芸における既成概念や形式を再考し、新たな価値観と発想を生み出すための創造的思考を高めていたと分析できるのである。本研究では、独自の作品制作を目指して意欲的な創作活動を展開し、近代的感覚を持って蒟醤、彫漆、存清といった讃岐漆芸を代表する技法に取り組むことで、表現力と芸術性を高めた音丸耕堂の功績を再考し、今日の讃岐漆芸が日本漆芸界において、どのように定義されるべきものなのかを改めて問い、その真価について論じる。研 究 者:弘前大学 教育学部 准教授 出 佳奈子本研究の目的は、ファイト・シュトース作《聖ロクス像》を軸に、ルネサンスにおけるモノクロームの木彫像の宗教的機能を明らかにしていくこと、さらに、聖ロクスが人々をペストから守る聖人と考えられていたこと、また、フィレンツェのサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂がペスト禍の聖画像崇敬と深く結びついた場所であったことを考慮し、この像が、対ペスト像として成立した可能性を示すことである。かつてヴァザーリはその著書『列伝』冒頭の技法論第14章において、ドイツ人による木彫像がきわめて精巧に仕上げられていることに言及し、その一例としてサンティ
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