鹿島美術研究 年報第39号
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― 73 ―格)の判断については論争がある。特に朝鮮半島と日本において、半跏思惟像は弥勒菩■として認識されている。しかし北呉庄で新たに発見された仏像では、愛馬別離像と樹下思惟像の間で様々なモチーフが共通しており、当時の作り手にとっては同義の存在として認識されていたと考えられる。愛馬別離は樹下観耕と同じく釈■がまだ太子であった時の話であり、両者はいずれも釈■太子像であると考えられる。そのため、東魏北斉の樹下思惟像は中国の思惟像の身分の解釈に新たな視点を提供し、日本や朝鮮半島の半跏思惟像の尊名の同定に繋がる。さらに、朝鮮半島と日本に現存する多くの半跏思惟像に見られる着飾や衣文などの形式は、東魏北斉の樹下思惟像に近似する。特に垂下した足を小蓮華で承ける表現は中国の北魏末から現れ、東魏北斉の樹下思惟像で一般的になった形式である。また、朝鮮半島の半跏思惟像や飛鳥時代の菩■の宝冠によく見られる三日月や宝珠文様も、東魏北斉の思惟像の宝冠に見られる。なお今回の北呉庄での発見により、東魏北斉の仏像においては、思惟像だけが三日月冠を戴いていることがわかった。こうした周辺地域の仏像との関連からも、東魏北斉の樹下思惟像の検討は東アジアの6〜7世紀の仏教美術史の研究に与える意義が大きい。モチーフの共通、また周辺地域の仏像表現の源流としての可能性、さらに東アジアの半跏思惟像の身分変化の問題は、本研究で引き続き課題として追究したい。それらの問題を解明すれば、半跏思惟像が東アジアで広く伝播した原因と受容の過程が明らかになると考えられる。恐らく、この変容の濫觴は末法思想や涅槃の表現が流行し始めた北斉時代にある。北斉の造像に見られる独特な造像形式や仏像の組み合わせなどの問題は、従来の研究では写し崩れが生じ、混乱が生じたものと見られてきた。しかし、これは仏教信仰も含めて新たなものを作ろうとする、または旧有のものと新生なものを結合する試行がなされた結果と考えられる。こうした点からも、東魏北斉の問題は隋唐時代の仏教美術の研究に欠かせない材料である。以上のように、半跏思惟像の研究は東アジアの仏教美術史研究ないし仏教研究において重要なテーマである。東魏北斉時代の樹下思惟像についての研究は、中国の南北朝から隋唐時代までの仏教美術の本土化などの問題と繋がるだけでなく、6〜7世紀の東アジアから中央アジアの仏教と仏教美術の伝播や受容と変容の問題にも大きな意義があり、重要な参考資料になると考えられる。

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