― 74 ―㉝ 幕末期における名所写真の導入と展開 ―絵画の視点との比較―研 究 者:京都工芸繊維大学 工芸科学研究科 博士後期課程 安 藤 千穂子日本における最初期の写真実践者である、■摩藩主の島津斉彬(1809■58)は、1857年に自身の肖像をダゲレオタイプで、1854年から58年の間に鶴丸城内の居館をカロタイプで撮影した。両者は異なる写真技法によって作成されていることから、人物とそれ以外の被写体を区別する見方が、写真黎明期の日本にあったと仮定できる。肖像は、ダゲレオタイプの代替技法であるアンブロタイプを用いて明治期も撮影され続けており、幕末期からの連続性がうかがわれる。一方で後者は、そもそも城という被写体が、風景や建築、旧跡など様々に捉えられてしまうためか、明治中期以降に展開する風景写真の系譜という視点のもとでは検討されてこなかった。佐藤守弘が指摘するように、明治20年代以降に流行する写真絵葉書や、アマチュア写真家による芸術表現としての風景写真に、日本の風景写真の始まりをみる必要もあるだろうが、本研究では、■摩藩における鶴丸城の写真を孤立した作例と捉えず、明治中期に登場する日本の風景写真へ連続的に展開するものとして再評価し、いわゆる風景写真の日本化の系譜を再検討してみたい。具体的には、幕末から明治10年代頃までに作成された「横浜写真」に注目し、ここに群として包摂されるいわゆる風景写真を、「名所写真」と名指して分析の中心に据える。人物以外を撮影した黎明期の写真には、1871年の「旧江戸城写真帖」や、1877年に記録された西南戦争の写真などがあるが、いずれも単発的である。そのため本研究では、まとまった数が現存する「名所写真」をとりあげ、幕末から明治中期における、いわゆる風景写真の日本的展開を分析する。「名所写真」の上位にある横浜写真とは、幕末期の来日西洋人によって生みだされた商業写真である。横浜を中心に西洋へ向けて大量に輸出されたために、後年に横浜写真と名付けられた。当初は現地調査の記録や報道として、のちには西洋からの観光客の日本土産用に、日本の風俗や風景が写真化され、明治10年代には日本人写真師も作成するようになった。先にも参照した佐藤守弘によれば、横浜写真の創始者のひとりであるフェリーチェ・ベアト(1832■1909)の写真には、西洋のピクチャレスク絵画との形式的類似性がみられる。このことから横浜写真とは、日本を撮影しながらも、実は西洋のまなざしが投影されたものであったと結論づけられている。他方で、横浜
元のページ ../index.html#89