― 81 ―㊳ 平安後期の九州における造仏をめぐる研究 ―東光院伝来諸像を中心に―播、作品の流通、流派と私淑といった様々な興味深い問題意識が立ち現れ、室町水墨画研究の深化に資するところが少なくないとみられる。研 究 者:福岡市美術館 学芸員 宮 田 太 樹本研究の意義は、平安後期の九州における①中央様式②中国様式の受容のありようを具体的な作例に即して検討し、その展望を示すことにある。①中央様式の受容平安時代後期に定朝様と呼ばれる作風が成立したことで、全国の仏像表現が画一化したことは良く知られている。その要因として都で行われた大規模な造寺造仏を支えるため、地方からヒトやモノが集められ、結果として彼我の交流が盛んになったことがあげられる。とりわけ、対外関係を掌握していた大宰府を擁する北部九州は中央とのつながりが強い地域として注目され、摂関期においては藤原氏に奉仕する家司が大宰府官人を務めている例を多く見出すことができる。観世音寺に安置される丈六の聖観音坐像は治暦2年(1066)の造立銘があり、畿内以外の定朝様の作例としては極めて早い時期の制作となる。大宰府と摂関家との強い結びつきが速やかな定朝様の受容に結びついたと予想される。②中国様式の受容また、11世紀後半以降には金鎖甲の文様を彫出するという、独特の表現を採用した神将形像が沿岸部を中心としつつ広く九州で展開し始める。同様の表現が中国・南宋時代の石造武将像にみられることから、入宋交易でもたらされた中国文物が関係している可能性が指摘されるに至っている。そこで、興味をひかれるのが11世紀半ば頃より博多に中国商人が定住するという新たな貿易形態が出現していることである。彼ら中国商人は、大山寺や筥崎宮などの在地の有力寺社と関係を形成することで、それらに連なる中央の寺社権門と結びつくことできた。中国風の神将形像が九州で展開した背景には、上述の博多在住の中国商人と中央の権門との結びつきが考えられよう。東光院伝来十二神将を含む、これら神将形像の多くに八幡信仰との関わりが想定されていることも、この推測を傍証すると言える。筆者は、博多に定住した中国商人を媒介として、定朝様と中国風とが共存した新た
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