鹿島美術研究 年報第39号
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― 82 ―㊴ 近代日本の図案教育研究 ―東京と京都の比較から―な表現が生まれ九州を中心に展開したとの仮説を持つものであるが、これを具体的に検証しうる有力な作例が東光院伝来の薬師如来像、十二神将像であると考える。同仏像群の造形の特色や制作背景を明らかにすることは、地方における中央様式受容の具体例を示すことに加えて、中国文物の摂取の様相をうかがうことにつながるだろう。また、入宋交易による文物は九州のみならず、畿内にももたらされていることを思えば、鎌倉彫刻史において問題となる「宋風」を考える上でも有益な視座をもたらすと予想される。研 究 者:京都美術工芸大学 工芸学部 講師  岡   達 也意義と価値「デザイン」の翻訳語としてつくられたとされる「図案」は、明治政府による殖産興業政策の一環であった輸出工芸品制作のために編纂された「温知図録」に見られるように、当初は考案者から生産者へ具体的な装飾や形態などを伝達する指示図としての目的を持っていた。明治中期以降、このような「図案」は実業教育として導入され、官立教育機関で図案制作者や図案指導者の人材育成が開始された。東京では東京美術学校図按科(明治29年設置)、東京工業学校工業図案科(明治32年設立)、東京高等工芸学校工芸図案科(大正10年設立)があり、京都では明治35年に京都高等工芸学校図案科が設立され、国内の産業界へ実務者、指導者として人材を供給する役割を担っていた。学校という場における図案教育に関する先行研究としては、緒方康二「明治期のデザイン教育」(1987年、『デザイン理論26』)、宮島久雄『関西モダンデザイン前史』(2003年、中央公論美術出版)がある。また、展覧会としては、「デザインの揺籃時代 ―東京高等工芸学校の歩み1」(1996年、松戸市立博物館)があり、それぞれの教育機関の特色が明らかにされてきた。本調査研究では、このような状況を鑑み、それぞれの教育機関の教育課程、指導者、制作物などの要素をもとに各機関が志向していた図案の傾向、図案制作者としての職能などを比較し、相対的に検討することで、東京と京都で異なる図案教育の様相があったことを明らかにする。これまで機関個別におこなわれていた図案教育に関する先

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