鹿島美術研究 年報第39号
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― 83 ―㊵ 渡辺玄対研究 ―「関東南画」の展開を見据えて―行研究を踏まえたうえで東京と京都を比較研究することにより、近代日本の図案教育の全体像を捉えることが可能になるになる。さらに、図案教育が始まった明治中期から大正期は、近代デザイン史では、黎明期あるいは前史として位置づけられているが、教育を通して日本の戦前から戦後デザインの基盤を形成した時期ともいえる。このような時期の図案について明らかにすることは、日本のデザイン史の発端を明らかにすることでもある。構想これまでの研究活動により、近代京都の図案教育機関についての情報は一定の蓄積ができている。本調査研究では、さらに東京へと調査対象を拡張し、主要な教育機関の調査を重点的に実施する。具体的には、東京美術学校図按科、東京工業学校工業図案科、東京高等工芸学校工芸図案科である。これらの機関の当時の教員、教育課程、制作物などを調査したうえで、それぞれの機関の特質を探る。さらに、京都の図案教育機関である京都高等工芸学校、京都美術工芸学校を比較対象として、近代東京と京都の図案教育を相対的に検討する。研 究 者:石川県立歴史博物館 学芸員  中 村 真菜美本研究は、「関東南画」の再考を見据え、江戸中後期に活躍した画人・渡辺玄対(1749■1822)の画風形成の過程および絵画観、人的ネットワークを復元しようと試みるものである。美術史学上、玄対は、師にあたる中山高陽(1717■1780)とともに、関西で興った「南画」の江戸への移植・定着に寄与した存在としてしばしば言及されるものの、その画業の内実が詳細に論じられたことはなかった。しかし、「関東南画」の大成者に位置づけられる谷文晁(1763■1840)がその教えを受けるなど、江戸を中心に展開した「南画」の形成に影響を及ぼしたことは疑いがない。既に指摘されるとおり、高陽は画論書『画譚鶏肋』で説いた実際に古画にあたり、それらの長所を折衷しながら作画することの重要性が、玄対の『玄対画譜(辺氏画譜)』(文化3年刊)、文晁の『本朝画纂』(文化6年刊)でも標榜され、その芸術観の継承が認められることは看過できない。また、玄対が長命を保ち、文晁という一画期となり得る存在が出現する前後の動向を見届けた人物であることは重要だと考える。

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