― 84 ―こうした課題意識のもと、本研究では紹介される機会が少ない玄対作品の探索・調査からはじめ、その画風形成のあり方を明らかにすることを目指す。玄対の作品を花鳥画と山水画に大別した時、前者は南蘋派の影響が極めて強く、養父・渡辺湊水から受け継いだものと考えられる。江戸という土地における南蘋派の大流行は「旧風革新」の一展開と指摘されているが、玄対を江戸の南蘋派の中に改めて位置づけ、そのバックボーンが「関東南画」にいかに影響を与えたかを検討したい。また、山水画はバリエーションに富んだ様式をとり、玄対の学習範囲の広さを物語っている。『玄対画譜』を通覧すると、玄対が実際に目にした中国画の細部を抜き出して細かに分析していることが確認できるため、今回の調査では、それがいかに玄対作品そのものに生かされているかという点を特に注意してみたい。玄対が日本に舶載された明末の画家・藍瑛の山水画十二幅対の内二幅を所持したことはよく知られ、近年では清代福建様式からの影響の可能性も指摘されるに至っていることも踏まえ、玄対の中国画学習の実態をできるだけ具体的に検討することを目指す。また、これまでに玄対と朝鮮画の関係として、宝暦度の朝鮮通信使・金有声が当時15歳の玄対に贈ったと考えられる山水画の木版墨■や、文化度の朝鮮通信使一行と合作した書画帖の存在が報告されている。その二度にわたる朝鮮通信使との交渉の詳細を明らかにし、日本近世中後期の朝鮮絵画受容における玄対の重要性を明確にできればと考える。合わせて、玄対の伝記的事実の確定を通して、いかなる交友圏に属し、それが画家としての活動に与えた影響を紐解く。若き日の玄対が池大雅(1723■1776)や木村蒹葭堂(1736■1802)と交流があったと指摘されていることは「関東南画」進展における東西画壇の関係を考える上で注目に値するため、掘り下げたい。これまでの調査を踏まえれば、玄対の支持者として、儒学者であった実兄・内田鵜州(1736■1796)を取り巻く漢学者たちや、柳沢信鴻や細川興文、増山正賢といった文人大名らが想定されるため、同時代の漢文学資料や随筆、日記等も参看しながら、具体的にその人的ネットワークを復元する。また、玄対とは同年生まれで親しい間柄にあった市河寛斎(1749■1820)と大田南畝(1749■1823)らの動向との連関、とりわけ彼らの考証学的関心との関わりには特に留意する。
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