■ ■■■■■■■■■■■■■■事業に■■る■■■■■■■画■■■■■■成■■■■画■■■■■■■交流に■目■■■【意義】レンの写本制作に結びつく可能性のある同時代の他の修道院の写本との造形的比較分析を行う。ザンクト・ガレン修道院は、9世紀前半の図書館目録に拠れば、当時426点の写本を所蔵しており、さらに9世紀後半のグリマルト・ハルトムート両修道院長時代には修道院長個人の図書室があるほどの蔵書があったことがわかっている(Bernhard BISCHOFF 1965)。従来の研究では、装飾の形態と写本の種類や用途を結びつけて考察されることはほとんどなかったが、こうした観点も留意しながら造形分析をすすめることで、ザンクト・ガレンの写本芸術の造形プロセスがより具体的に明らかになる。ザンクト・ガレン修道院の9世紀後半の図書館目録には「アイルランド式に書かれた書物」と題目がつけられた本の一覧が残され、同時期の伝記には詩人や写字生として活動した修道士の師がアイルランド人であった事例が記されている。カール大帝を讃える物語『カール大帝業績録』の冒頭に知識人としてアイルランド人を登場させたのも、ザンクト・ガレン出身の修道士である。本研究は、とりわけ9世紀後半に修道院内で精神的支えとして重要視される傾向にあったアイルランドという要素が、造形的にも視覚化されていることを明らかにする、一つのケーススタディとなるであろう。研 究 者:九州大学大学院 人文科学府 博士後期課程 髙 山 環アングルはパリで美術アカデミーの教育を受けたのち、1806年に国費でフランス・アカデミー・ローマ校へ留学したが、留学以降、彼の作品は身体のデフォルメ、浅い空間表現による画面の平面化など、アカデミーの規範から逸脱した個性的な様式化を見せるようになる。このようなアングルの個性的な美の規範に則った表現は、アカデミーには意図的に「絵画の誕生の時代」へ■ろうとする「プリミティフ(原始的で未発達)」なものと捉えられ、強く批判され続けた。画業を通してアカデミーという制度のなかに在った彼が、その規範から逸脱した様式や美の規範をいかに形成し得たのかという問いに対しては、これまで、アングルの個人的な趣味に起因するものとして― 9 ―
元のページ ../index.html#107