鹿島美術研究様 年報第40号(2022)
109/138

■ ■国■■■■出■■■に■■る■■■表■■研究目指す。更に、本研究の射程は、様々なコミュニティを個別に考察する研究の間に立ち、アングルを通してそれらをつなぐ役割にまで及ぶことが期待される。研 究 者:九州国立博物館 研究員  桑 原 有寿子■調査研究の目的本調査研究は、九博所蔵飾布および新出染織資料を手がかりに、これまで解明されて来なかった粤繍のアジアにおける移動経路および粤繍に見られる色替り表現のルーツを探るものである。■新出資料に期待される新知見①粤繍の装飾布は、九博所蔵飾布以外にも日本も数例伝来する。滋賀県大津市の大津祭で使用される山車のうち3台に、粤繍の懸装品が用いられている。また寺院へ奉納された例が複数残る。著名な例としては滋賀県の西教寺に伝わる打敷がある。この打敷には、裏面に銘文が見られることから、長崎奉行や堺奉行を歴任した長谷川藤広(1566〜1617)が、縁戚にある徳川家康(1542〜1616)の追善供養のために奉納したものであることが明らかである。また、栃木県の輪王寺には、同じく家康ゆかりと伝わる粤繍の打敷が遺る。西教寺裂に関しては、ポルトガル、スペイン、オランダとの交易を監督した長崎奉行を務めた長谷川藤広ゆかりの品であるということから、粤繍が日本にもたらされたルートはポルトガルが関与した可能性を指摘されている[注1]。しかしながら、東アジアから東南アジア地域の中で粤繍がどのような移動経路でやり取りされていたかは明らかにされていない。島根県津和野町の永明寺は、鹿野藩主を務めた亀井茲矩(1557〜1612)ゆかりの寺である。茲矩は朱印状を得てサイオウ(現・マカオ近辺)やシャム(現・タイ)に貿易船を派遣し東南アジアと積極的に交易を行った戦国大名として知られる。永明寺には、粤繍裂とみられる刺繍作品が伝わるが、寺伝には茲矩が占城より持ち帰った染織品と伝わる。占城とは現・ベトナム中部を中心に栄えたチャンパ王国のことを指す。茲矩がチャンパと貿易した記録は現時点では見つかっていないものの、永明寺には実際に交易したシャム伝来の壺なども遺ることから、実際に茲矩がチャンパで収集した可能性は高いと考えられる。この永明寺所蔵の粤繍裂は、佐賀県立名護屋城博物館に― 96 ―

元のページ  ../index.html#109

このブックを見る