■■■次に、穂庵が北海道滞在を契機に、明治16〜17年に集中的に制作したと考えられる一連のアイヌ絵の作例を取り上げ、年紀、主題、画面の人物構成を比較検討することで、平沢屏山(1822〜76)の写しからアイヌ絵を描きはじめたと考えられている穂庵が、単なる屏山画の受容、モチーフの並びかえから脱してどのように個性を創出していくのか、その過程の具体的な到達点の1つ目として、明治17年(1884)に第2回内国絵画共進会へ出品したと記録がある「北海道土人之図」の図案について推定を行い、さらにアイヌの住居が描写されている複数の作品を2つ目の到達点に設定し、上京後にもアイヌ絵を制作していた可能性も含めた作成順について検討を行う。最後に、実際に北海道滞在したことで目にすることができたであろう、アイヌ風俗を描く上で広く流布していた先行作例や同時代画人が所有していただろう粉本からの写しの具体例を追加する。そして穂庵が画力だけでなく持ち前の人柄によって愛され、函館での活動時期の人脈があったからこそ、明治19年春の上京以降、明治23年12月に亡くなるまで、決して長くはない上京期間においても、多くのことを吸収し画面に表現することができたと結論づける。数回、数年間を過ごした北海道・函館で現地の人々と交流することによって穂庵が学び得たもの、そして現存する穂庵によるアイヌ絵の作例を比較検討することで、その制作順序について検討し、さらにその後の画業展開上の北海道滞在の重要性を提起したい。最初に、穂庵の北海道行きの経緯について、先行研究での言及を振り返り、特に明治初期の最初の渡道について再検討を行う。それを踏まえた上で、明治10年代、函館滞在時の穂庵の具体的な画家としての活動や生活振りについて、これまでも函館での穂庵の活動を裏付ける資料として示されてきた雑誌『巴珍報』および『函館新聞』の記事を再点検し、沢田雪渓(1844〜?)および木村巴江(生没年不詳)との関係の重要性およびその他の函館在住文人たちとの書画会での交流の記録について確認する。― 21 ―
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