鹿島美術研究様 年報第40号(2022)
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■ ■■■■■■■■■■■■■■画■研究研 究 者:たましん美術館 学芸員  齊 藤 全 人本研究の一番の目的は、早くに中央画壇から距離を置いたことで、結果的に知られざる画家となってしまった邨田丹陵の初期から晩年までの画業を、極力明らかにすることである。また丹陵と関わりのあった人物まで研究対象を広げ、それぞれの作品に何らかの影響がうかがえるかを考察する。本研究には次のような意義がある。まず一つは、《大政奉還》をはじめとした何点かの代表作以外、公的機関(美術館、博物館など)に作品がほとんど所蔵されていないため、まだ評価の定まっていない丹陵の画風が明確になるということである。これまで展覧会で大々的に取り上げられることもなく、基礎研究が十分なされているとはいえない丹陵であるが、作品調査が進めば初期の画風、中期の画風、後期の画風とその変遷まで明らかになるものと思われる。特に注目したいのは、明治40年を境に第一線から敢えて退いた前後の、画風の変化である。展覧会での評価を求めて描いた作品と、他者の評価を気にせず自身の楽しみとして描いた作品は、当然ながら傾向が異なるはずである。その両方を見ることで、画家としての本質がとらえられるのではないだろうか。次に本研究によって、明治から大正にかけての歴史画家たちのネットワークを浮き彫りにすることも大きな意義があると言えるだろう。丹陵は寺崎廣業や小堀鞆音らと日本青年絵画協会を結成したことが知られているが、廣業は義弟にあたり、日清戦争・日露戦争と二度にわたり両名で従軍画家をつとめている。また武具の蒐集という共通の趣味では梶田半古や吉川霊華とも面識があったようである。文献資料のほか、作品の合作などで丹陵を取り巻く人の様子が判明すれば、より具体的な影響関係が見えてくるはずである。最後に、丹陵研究を通じて、近代日本画における歴史画家の果たした役割や位置づけまで考察を進めることができれば、本研究の目的は十分に達成したといえよう。― 29 ―■.2022年度■美術に関する調査研究■助成■■研究■■ (2023年)研■■■の■■

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