たちが各地に展開して布教活動を行った。それゆえ、県内各地には他地域に比べて太子関連の作例が豊富に残されている。このうち、真宗の太子像は、8世蓮如の時代に本願寺教団を中心とする体制を確立する過程において図像が規定されたため、現在堂内で懸用されるものの多くは画一化したものである。その一方で、蓮如以前の初期真宗においては、14世紀成立の『存覚袖日記』に看取されるように多種多様な聖徳太子関連の掛幅が用いられており、二十四輩寺院の中には、こうした初期真宗の信仰下において制作されたと考えられる掛幅が伝来している。しかし、■城県内の事例に限れば、これらの掛幅を初期真宗独自の作例と紹介するに留まりがちであり、個々の作例に対する制作背景など具体的な考究が十分に行われてきたとは言い難い。県内における聖徳太子信仰を考えるために本研究で特に注視したいのは、大きく分けて①聖徳太子を阿弥陀三尊の脇侍とする礼拝画、②聖徳太子に関する略絵伝の2種類の作例である。前者について、■城県には、小美玉市・喜八阿弥陀堂本、那珂市・阿弥陀寺本のように、阿弥陀如来ないし十字名号の両脇侍に聖徳太子と善導ないし法然を配置する画像が存在する。この三尊構成を、初期真宗において制作された光明本尊等から特定の尊像を抽出し、阿弥陀三尊として再生したものと見る見解がある。しかし、光明本尊等における勢至菩■をわざわざ善導ないし法然に置き換えていることを踏まえると、上記の見解には一考の余地があるように思われる。むしろ、勢至菩■を法然の、観音菩■を親鸞の本地とする思想の影響も想定できよう。この本地思想を記した恵心尼書状には聖徳太子についての言及は無く、それゆえ従来の太子信仰研究において等閑視されてきたように思われるが、喜八阿弥陀堂本や阿弥陀寺本と同様の構成の存在が他地域には確認し難いこと、恵心尼書状の内容が常陸の下妻を舞台にしていることを考慮すると、上記のような作例が、地域独自の思想に影響に受けつつ成立した可能性も排除できない。一方、後者の略絵伝は、太子の事績のうち少数の場面を選択して描いたものである。県内の作例はいずれも真宗寺院に伝来するが、このうち笠間市・光照寺本の画面中央には舎利を、東海村・願船寺本には舎利出現の奇瑞と関連する二歳像を描いており、真宗の思想のみでは説明しきれない部分がある。近年、律宗と太子信仰の関係性についての研究が著しく進展し、坂東市・妙安寺の聖徳太子絵伝の制作に西大寺律宗の影響が指摘されている。太子の略絵伝においても律宗教団の影響が多分にあった可能性― 32 ―
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