鹿島美術研究様 年報第40号(2022)
59/138

■ ■■■■■■■■■■■■研究 ■■■■■対■■■■■■■■■に■研 究 者:東北大学大学院 文学研究科 博士後期課程  付   恩 浩・意義・価値南北朝時代の人々にとって中国は仏教世界の辺地に当たる。それゆえ、仏陀がかつていた聖地に実際赴くのは至難の業である。末法思想が浸透する中、仏伝図像は当時の人に聖地巡礼を疑似体験させるという重要な役割を担った。西牆村釈■多宝対座説法造像碑における仏伝図の配置と意味を、題記を通して理解することは、当時の庶民の仏教世界観や理想の聖地巡礼の形を窺うことに繋がる。釈■多宝対座説法造像碑の碑陽にある二仏並坐像は、『法華経』に由来する霊鷲山に出現した二仏並坐像とクシナガラ双林に現れた多宝塔(二仏並坐像)という二つの意味合いを持つ。そして、この二仏並坐像は、カピラ城に現れた釈■という主題と一対となっている。西魏、北周の二仏並坐モチーフを考える上で重要な事例であり、北朝晩期の二仏並坐像と涅槃図像がセットで作られた事例(例えば敦煌莫高窟297窟)の意味を考える際のヒントとなる。北周武帝の廃仏以前、仏、道、儒三教の融合は既に進んでいる。耀県には仏道造像碑が多数出土する一方で、シュヤーマ本生のような親孝行と関連する仏教ストーリーも度々碑に表される。城池図に仏、道、儒の要素を散りばめる本造像碑は、北朝晩期の西牆村地域において三教融合の様子を反映する。旧来のモチーフを仏造像碑に取り入れる裏には、宇文政権が建国以来六官制度を採り入れ、旧来の制度で国の諸民族を管理する国作りの姿勢がある。正史に記されていないこの実態をあきらかにすることは、西魏・北周の社会状況研究への貢献となる。茘非周歓造像碑、茘非郎虎与任安保造像碑、茘非興度造像座は、「茘非」、「雷」などの多くの羌族姓供養人が出資して造営された。北朝時代の西牆村では羌族を中心とする多民族社会をいかにしてまとめたのか、本研究は美術史の分野だけでなく、当時の社会情勢・民族構成や移動に関する研究でもある。西牆村造像碑は南北朝時代の羌族社会や民族融合の状況を考察する上でも極めて重要な資料である。・構想理由本研究は、私の博士論文のテーマである、北朝時代『法華経』を代表する二仏並坐モチーフの変化に注目する研究の一環として構想したものである。中国古代における―  6 ―

元のページ  ../index.html#59

このブックを見る