鹿島美術研究様 年報第40号(2022)
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が中心となり、家督後の弘化年間から明治初期にかけての約30年間に形成されたと考えられる。筆者は当初、このコレクションは不昧以来の藩の人脈や家老としての財力を背景に藩政期に形成され、明治維新とともに散佚したと想定していた。しかし、これまでの調査から、乙部家はむしろ明治初年に旧大名家や豪商等が手放した一級品を吸収することで、コレクションを拡充していた様子が見えてきた。こうした収集のあり方は、幕藩体制崩壊後の旧政権からの〈道具〉の放出→近代数寄者と呼ばれる明治新政府要人・政商らによる回収と〈美術〉としての再編、と理解されてきた従来の「美術品移動史」の■間に、全く未知のストーリーが存在したことを示唆しており、その再考を促すものである。(3)中央と地方に分散する作品・史料情報の相互補完乙部家旧蔵絵画とその蔵幅目録は、松江市出身の美術史家・相見香雨(1874■1970)が大正期に東京で出版した美術全集『群芳清玩』の中で最初に紹介し、活字化された。だが、その記憶や情報は相見周辺の限られた人脈に留まり、昭和戦後以降、様式論的研究が進展していく中で、乙部家に言及する論考は姿を消した。一方、松江においては乙部家文書をはじめ大量の一次史料が伝来していたものの、ごく近年まで公開されておらず、かつ、作品自体は■かしか残らなかったことから、同家のコレクションの存在はほぼ忘れられていた。本研究ではこうした状況を踏まえ、分散した乙部家旧蔵絵画と地域に残った史料の情報の相互補完を進めるとともに、特に中央に対して地域所在史料の意義と重要性を発信していきたい。近年、若手の絵画史研究者間で表具裂や外装等の書画周辺情報に改めて着目する気運が高まっているが、地域所在史料は、そこに多くの有益な情報を提示することができるだろう。また、将来的に本研究の成果として、各地に現存する乙部家旧蔵絵画による展覧会を松江で開催し、同家の所在した地で実際に作品を鑑賞していただき、地域の多様な美術文化愛好の歴史に対する理解を広げていきたい。―  8 ―

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