■ ■■■■■■■■■■■■■に■る■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■る■■■名本『曾我物語』や『神道集』の肯定的狩猟観、あるいは『源平闘諍録』にみられる観音の武神的性格の強調など、東国の在地信仰に根ざした要素を取り入れながら展開をとげる。こうした説話の流布が、在地領主層の造像に際しての像種選択や、地域信仰のコアとしての札所あるいは霊験寺院の興行に及ぼした影響について検討する。次に、当地域の在地霊場に多くみられる素地仕上げの観音像を檀像風彫刻として一括し、その造形的特質の考察と体系的編年を試みる。畿内周辺においては、院政期に檀像の観念が変容したことが指摘されており(高梨純次2007)、関東の檀像風彫刻においても、古代末期の一木造を主流とする状況から、鎌倉時代中期以降の一木造・割矧造・寄木造の並存状況への移行過程において、造像主体の多元化に伴い檀像あるいは霊木の観念の流動化が生じた蓋然性を指摘する。最後に上述の視点を統合し、当該期の在地造像の典型的事例として、南北朝時代の鎌倉公方支配下で重きをなした下総結城氏を願主とする仏師院祥の作例を検討する。院祥は、大輪寺(■城県結城市)聖観音立像の延文元年(1356)の造像銘における「関東大仏師安路法橋」の名乗りから、関東にルーツをもつ在地仏師とみられ、当地方における寄木造の檀像風彫刻に複数の作例を遺す。院祥の作例に付随する霊験譚を、造形的特質と併せて検討することで、守護・守護代クラスの在地武士層における像種及び仏師の選択に際して一定の基準が作用していた可能性を検討する。研 究 者:成城大学大学院 研究生 平 野 文 千研究対象とするホアキン・ソローリャは日本では知られるところの少ない画家である。大髙保二郎は「19世紀スペイン絵画はゴヤ(1746〜1828)の死に始まりピカソ(1881〜1973)の登場で終わる時代である。この約80年間、残念ながら天才とか巨匠の名に値するような大画家は輩出しなかった。」(世界美術大全集、Vol.23、後期印象派時代、340 頁)と述べているが、次の時代20世紀スペイン絵画を担う可能性を示した画家の一人としてソローリャを挙げ、「巨匠に加えてもよいだろう。」(前掲書、345頁)と言葉を残している。また、数少ない画家への言及で、2004年の『印象派美術館』(島田紀夫、pp. 46■47)― 53 ―
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