鹿島美術研究様 年報第40号(2022)
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■ ■■■■■画に■■る■■■■成■■■■を松平不昧が取り上げた『中興名物』など小堀遠州の茶に関する資料と筑前高取焼における「綺麗さび」の実像を考える研究やその様式的な変化とを結びつける研究は少なく、本研究は、新知見を得る可能性が高い。また、「遠州七窯」という小堀遠州が影響を与えたという茶陶が日本各地にあるが【志都呂(静岡)・膳所(滋賀)・上野(福岡)・高取(上野)・古曽部(大阪)・赤膚(奈良)】、その中で筑前高取焼は、小堀遠州との関係を文献などで確認できる重要な生産地である。これら七つの窯すべてについて、小堀遠州が影響を与えていたかは不明である。重要なのは生産地がその正当性を示すために小堀遠州との関係を重言している点で、江戸時代前期における小堀遠州の影響力を示しており、江戸時代の茶道の一潮流であった。その点で本研究により、小堀遠州が茶陶に与えた影響が明らかとなり、江戸時代前期(近世初期)の茶道史の解明にも役立つものである。③その構想筆者は筑前高取焼の通史を描きたいと常々考えており、高取焼の前期(内ヶ磯窯と白旗山窯)の「綺麗さび」の概念が、後期(小石原鼓窯、東皿山窯、西皿山窯など)においても引き続き継承され、伝統化していくと考えており、筑前高取焼の通史の基礎的な研究になると考えている。また、近世における茶道史研究は三千家成立以降の研究は少なく、この「綺麗さび」という小堀遠州の美意識は近世茶道史においても重要な研究と考える。また、この「綺麗さび」という美意識は、茶室などの建築や庭園、華道などについても用いられ江戸時代の文化全般、ひいては日本文化を規定する一つの概念ではないかと考えており、その構想はさらに広がりをみせるものである。研 究 者:九州大学大学院 人文科学府 博士後期課程  前 田 佳 那1、山水画が示す都開封における文化主体先行研究では、北宋前期の山水画の受容層もほかの山水画一般と同様に、北宋士大夫であると想定されてきた。しかし、科挙試験の拡充とともに台頭してくる新しい受容層である士大夫とは異なる、北宋前期特有のビューアーが差異化されるべきであろう。統一国家として北宋王朝が誕生した時代の文化を支えていたのは、五代十国の優秀な人材たち、とりわけ南唐や呉越といった南方出身の官僚たちであり、彼らこそ科― 59 ―

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