挙制度を拡充し、後の文人士大夫層を輩出する準備を整えたのであった。こうした受容層の観点から北宋初期と北宋後期以降とを明確に区分し、北宋初の都開封という場のもつ多様なコンテクストの中で作品の意味と機能を解明しようする本研究の観点は、従来十分に検証されてこなかった。こうした意味で、国初において、屋木門の画家たちと、皇帝の威光の具現化という責務を負っていた南方系の官僚たちの関係性は、北宋前期の時代相を象徴するものであったといえる。元来、屋木画の建築の図面のような無機質な性質は低級なものとして扱われてきたが、北宋前期において、国家を挙げての造営事業との兼ね合いで、屋木が絵画化される意義が明確に向上したことが屋木門よりわかる。屋木門に記載される画家の何人かは、被差別的な出自であったことが災いして、北宋後期において新興受容層である士大夫が山水画を歴史化してゆく過程では、その功績のわりに十分に評価されない。これに対し、本研究は、作品と作者、注文主や鑑賞者、所蔵者といった、屋木門の画家たちが制作をおこなった北宋初期の開封という場のもつコンテクストのなかで、作品の意味と機能を解明し、北宋社会において山水画が担った機能の多様性を拓く点に意義がある。これにより、一般的な北宋山水画史のモデルを見過ごしてきた作品の実用的効果や、介在する人々の活動の復元を試みる。2、山水画が示す都開封における地域性の問題本研究は今後一層重要となると考えられる「地域性」への視座に立っている。以前までの宋代史研究は、中央集権的支配を前提に、全国を一元的な体制の元に捉えようとする傾向が強かった。しかし近年、北宋において既に中央と異なり、辺境においては別のシステム及び人的ネットワークに基づいて社会が動いており、また各地域間の差異が大きいことが判明しつつある。南宋になるとその傾向が強くなり、より地方分権的な様相を呈し、ローカルエリートが登場するに至るが、本研究は都開封に受け継がれた五代十国の亡国の人材ネットワークを前提にしている。筆者は、国初の皇帝の威光の具現化における実務の指揮系統であった、南唐出身の劉承規の視界という新たな観点から、北宋前期の山水画制作が担っていた政治的意図の一旦を、第66回国際東方学者会議における口頭発表で明らかにした。重要なことは、建国そのものが一元的には描けないということであり、建国の理念と、南方出身の官僚たちの屈折した想いや亡国への懐郷の念は表裏一体をなしていた。屋木門の画家のひとりである燕文貴の山水画は、こうした北宋前期の都開封という国初のさまざまな必然性なかで形成され― 60 ―
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