鹿島美術研究様 年報第40号(2022)
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■ ■■■■■■■■に関する研究る弥勒の姿である可能性などを挙げ、北円堂が兜率天世界を表象しているとする新たな見解を提示した。またこの研究と並行して、奈良・東大寺所蔵の西大門勅額付属八天像についても考察を行った。ここにあらわされた四天王像は鎌倉時代に再興されたものであるが大仏殿様四天王像ではなく、また中金堂像とも異なる形式を採っている。筆者は図像形式の分析から現状の配置が当初のものではないと論じ、造立当初の配置案を提示した。大仏殿様四天王像でない二作例の検討を踏まえ、本調査研究ではなぜ大仏殿様四天王像がその後の四天王像の主流形式となり得たのかについて考究する。ここでは大仏殿様四天王像という図像形式に関して主尊との関係に注目するが、ここに研究の独自性があり、新しい見解を示すこともできると考える。これまでの四天王像研究では図像形式について言及する場合でも流行など事象の指摘に留まるのみで、その分析から考察へと発展するものは多くない。しかし図像形式について考察し、他の要素と組み合わせて考察することで筆者はこれまでに像の安置場所や造立当初のすがた、また原像の制作年代などを提示することができた。大仏殿様四天王像が流行した背景についてはいくつかの説が提示されているものの、いずれも検討の余地が残されている。というのも、それらの多くは大仏殿様四天王像各作例の調査報告における考察や図録等の解説文で示されたもので、管見の限りこの問題についての専論はない。現時点では当時の釈■・舎利信仰を背景に大仏殿様四天王像が広まったという仮説を立てているが、実作例の調査等を踏まえて造立当初の安置堂宇と主尊を比定し、その背景にある思想からこの仮説について検討する。研 究 者:中山道広重美術館 学芸員  常 包 美 穂本研究は、歌川広重(寛政9〜安政5年/1797■1858)が嘉永年間(1848■54)を中心に制作した絵手本について、図様選択と描法を中心に分析し、錦絵や肉筆画との関連性を追究することを目的とする。嘉永年間は、天保の改革(天保12〜14年/1841■43)による出版統制が緩和され始めた時期であり、嘉永4年の株仲間再興令以降は浮世絵出版界全体で多作の傾向があった。また、嘉永2年に北斎が没したこともあり、広重の属する歌川派は最盛期を迎― 76 ―

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