鹿島美術研究様 年報第40号(2022)
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えた。嘉永6年(1853)の『江戸寿那古細■記』における浮世絵師番付では、歌川派が人気上位を占め、広重は3番目に位置付けられている。こうした浮世絵出版界の動向の中で、嘉永年間以降の広重は人気絵師として精力的な活動を見せている。東海道物など50枚を超える錦絵■物のほか、嘉永2〜4年には約200幅の肉筆画群、通称「天童広重」を制作している。また、嘉永元年には信濃国飯田、同5年には武相、翌6年には房総を旅し、写生を行っている。このような背景の中で出版された広重絵手本は、広重の画業や当時の浮世絵出版界においてどのような意義があったのだろうか。まず、嘉永年間以降の多作期における広重作品には、構図等の定型化が指摘されている。そして、絵手本に収められた図様には、錦絵や肉筆画への転用が見受けられる。例えば、『略画光琳風立斎百図』(嘉永4年)に描かれた「都の花見」(15丁表)は、広重による肉筆画「十二ヶ月風俗画 三月」(安政年間/1854■60、原安三郎コレクション)に、花見をする女性の後ろ姿が転用されている。絵手本における図様選択を分析し、錦絵や肉筆画との関連性を追究することにより、多作期における作画姿勢を考察すると共に、粉本としての絵手本利用の可能性を明らかにすることができる。また、絵手本には、風景画や人物画、花鳥画など様々な画題が収められている。その種類や割合を分析することは、広重に対してどのような画題が求められていたかを探る手掛かりとなり、当時の絵師としての広重像を明らかにすることができる。また、広重は絵手本において「写真(しょううつし)」をはじめとする3体の描法を図説している。『絵本手引草』(嘉永年間)の自序において「写真」(写生)を基本とした上で「筆意」を加えるという画論について語っている。「写真」を重んじる作画姿勢は、広重による絵本『東海道風景図会』(嘉永4年)および『富士見百図』(安政6年/1859)においても自序として言及されている。絵手本における描法を錦絵や肉筆画、絵本と比較することで、画題や表現意図による描法の描き分けを考察することができる。さらに、広重は、嘉永年間に地方を旅し写生を行ったとされている。絵手本を含む広重作品と、写生帖および現在の実景を比較することで、広重の論じる「写真」や「筆意」の観念を追究することができる。以上、広重絵手本と錦絵および肉筆画との関連性を考察することで、広重晩年の作画姿勢を明らかにすると共に、広重の画業および浮世絵出版史、ひいては中国画譜を起点とする画譜および絵手本の系譜における広重絵手本の位置付けを行うことができ― 77 ―

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