■ ■■■■■研究■■■■■■■に■■る■■画■る■■■産■■■■■■■■る。広重絵手本の制作には、嘉永年間の多作期における図様や描法の整理としての意義を有している可能性がある。また、広重絵手本は相次いで出版されたことから、人気絵師として一定の需要があったと考えられる。企画および出版を手掛けた版元の動向と照らし合わせることで、その意義をより深く考察することができるだろう。これらの成果は、今後の浮世絵研究において、広重晩年の画業と、浮世絵出版界の動向を明らかにする一助となると考える。研 究 者:横浜市歴史博物館 学芸員 ■ 井 大 門本研究は、明治期の横浜と係わりのあった画家たちのなかでも横浜に埋もれていった画家の一人である笠木治郎吉を中心に日本近代横浜における洋画受容のあり方の一端を解明することを目的とする。幕末から明治にかけての横浜をめぐる画家たちは、チャールズ・ワーグマンにはじまり、五姓田義松、初代芳柳など五姓田派が牽引し、以後、多くの作家がその種の制作を発展させ、特に明治後半を中心とし多様な展開を示していった。時代の幅や活動の実態について多くは明らかになっていないものの、例えば、歌川国芳・芳年に学び、1884年の内国絵画共進会に油彩・水彩作品を出品した中山年次。数度にわたり日米間を往復し、横浜スケッチ倶楽部と称する画塾をひらいた山田馬介。水彩画とは思えぬ質感と立体感を備えた風景画を描き、横浜の外国商館を中心に輸出用の絵画を製作した渡辺豊州。明治末に上海に渡るまで横浜を中心に活動した加藤英華。本研究において取り上げる笠木治郎吉が学んだといわれる山村柳祥といった画家たちを上げることができる。彼らの描く柔らかな光と、色彩表現、風景そして風俗は同時代の洋画や日本画と比較しても劣るところが少ない。そして詩情豊かな風景や風俗が描かれ、共通することは、いずれも来日外国人向けの日本紹介の土産品という性格を持つことである。しかし、こうした性格から、美術のヒエラルキーのなかで低位にみられてきた。美術といえども社会制度の一部であり制作された作品は時代層を反映しているという前提に立つならば、幕末明治期における横浜という磁場は、ヒト、モノ、新思潮、技術― 78 ―
元のページ ../index.html#91